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月の異名  作者: 雲居瑞香
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三十二話








 終業後、子猫を手放すのを嫌がるアン尚書から子猫を取り上げ、二匹を連れて後宮に向かった。美蘭メイランが待っていたわ! とばかりに両手を上げる。


「猫ちゃんは!?」

「連れてきましたよ」


 籠を渡すと、美蘭は嬉しそうに中を覗き込んだ。

「ねえ翠凜ツェイリン、飼ってもいいでしょう?」

「ここは主上の城です。お好きになさってくださって構いません」

「やったぁ」

 少女らしく喜ぶ美蘭に、翠凜は言った。

「でも、一匹だけですよ」

「むむ……では、この子。もう一匹は皓月ハオユエが世話をするのよ!」

「それは構いませんが」

 一匹を布ごと抱き上げた美蘭は、残ったもう一匹を見て深莉シェンリーに真剣な表情をしてそう言った。深莉ははじめから一匹は引き取るつもりだった。


「折角ですし、お名前を決めては?」


 それにしてもかわいらしい子猫ですね、と翠凜も頬が緩んでいる。美蘭は子猫をじっと見て考えるそぶりを見せた。


「じゃあ、この子は蘭香ランシャン!」


 明らかにその名は自身の名・美蘭と亡き兄・叡香ルイシャンからとられていた。かわいらしい名前である。雄だったらどうすのだ、と言うところであるが、蘭香も深莉が引き取る子猫も雌猫である。

「主上。ついでにこの子の名前も決めてくださいますか」

 深莉が頼むと、美蘭は一度瞬きし、すぐに言った。


「その子は千里チェンリーね」

「……ちなみに、その心は」

「だって、皓月ハオユエは皓月でしょう? 皓月千里っていう言葉があるじゃない」


 皓月千里。遠くの場所まで月の光が照らしている様を言う。確かにそういう言葉は古書に出てくるが。


「ねえお前。千里という名をもらったぞ。よかったな」


 ちょっと複雑な気分だが、美蘭と叡香はやはり兄弟だな、と思った。名づけ方が似ている。そのまま、と言うか。


「早速蘭香の寝床を確保しなければなりませんね。生後どれくらいなんですか?」


 翠凜が美蘭が抱っこしている蘭香を覗き込みながら尋ねた。深莉は「二週間くらいか」と答える。

「なら、まだしばらくはお乳ですね。母猫がいればいいんですが……」

 と翠凜がつぶやいたことで、深莉は「ん?」と思った。美蘭が首をかしげる。

「どうかしたの、皓月」

「いえ……何でもありません」

 ちょっと気づいてしまっただけだ。たぶん、口にしたら美蘭が怖がるかなと思ったので口をつぐんだのだが。

「え、言ってよ。気になるわ」

 美蘭が身を乗り出して尋ねる。深莉は千里の背中をとんとんと指でたたきながら言った。


「では言いますが……二週間の間、この子たちの世話を誰がしていたんでしょうか。母猫がいたような雰囲気もなかったですし」

「良く考えればなぜ主上の寝室にいたのかもわかりませんね……」


 翠凜が追い打ちをかける。美蘭は目を見開き、それからさすがに蒼ざめた。

「じゃあ、やっぱり幽霊……?」

「……」

 深莉も同じことを考えた。幽霊が、この子猫たちの世話をしていた? 子猫だけで二週間も生きていられるとは思えない。がりがりに痩せていたとはいえ、誰かがある程度世話をしていたと思われるのだが……。

 深莉は千里から目をそらし、顔をあげた。すると、美蘭の向こうに人影を見た。その人影は嫌にはっきり見えていて、こちらに向かって手を振っていた。美蘭と似たその秀麗な面差しはよく知っている。


「皓月?」


 美蘭に呼びかけられ、深莉は目を閉じる。再び開けた時にはすでに人影はいなくなっていた。

「いえ。何でもありません」

 怨念渦巻く禁城の後宮。だが、恨みつらみ怨念とは無縁そうなその人物がここにいるのは、妹や、友人たちが心配だからだろうか。


 あの人影……先帝・叡香がこの子猫たちを世話していたのだろうか。


 そんなわけないか。


 幽霊はいるが、物体に触れない。深莉は霊力があり非現実的なものを日常的に見て、接しているが、妙なところで現実的である。


「では主上、御前、失礼いたします」

「え、ええ。ありがとう、皓月」

「いえ。私は結局何もしておりませんから」

 千里を入れた籠を持って立ち上がった深莉であるが、途中で、「あ」と思い出した。

「主上。鷹の結文ジェウェンに蘭香を狩らないようにしつけなければなりませんよ」

「わかってるわ」

 頼もしくうなずいたので、たぶん、大丈夫だろうと思うことにした。
















 深莉は千里の背中を撫でながらファン夫人に髪を結ってもらっていた。今日は子俊ジジュンとのお出かけの日である。それを聞いた範夫人は目を輝かせて喜んだ。


「ようやくですね!」


 などと言われた。いま、彼女はうきうきと深莉の髪を編み込んでいる。

 深莉の恰好は街を歩ける程度の女物である。それでも、いつもよりひらひらした格好は動きづらい。どこからどう見ても貴族のお忍びである。

「はい、いいですよ。千里はお預かりいたしますね」

 と、範夫人は深莉から千里を取り上げた。みゃあ、と子猫が鳴く。千里はすっかりこの家になじんでおり、範夫妻からも可愛がられている。

 一応鏡で確認すると、髪は一部を結い上げ、歩揺で飾られていた。まあ、これくらいなら街歩きをしても問題ないだろう、と言う感じだ。

「深莉様。お迎えですよ」

 範さんが深莉を呼んだ。深莉は立ち上がり、玄関に向かう。

「深莉。迎えに来たぞ」

「こんにちは、子俊」

 ひとまず通常の挨拶をする。子俊は深莉を一歩離れて見つめると。


「……似合ってる」


 とだけ言った。彼らしからぬ素直なほめ言葉に、深莉は面食らう。

「……ありがとう、でいいのだろうか」

 ちょっとひねくれた言い方をしてしまったが、子俊が「いいんじゃねぇの」と笑ったのでよしとする。なんだか子俊が異様に寛大でちょっと怖い。

「深莉様、行ってらっしゃいませ。子俊様、深莉様をよろしくお願いします」

「わかってる」

 にこにこした範夫人に見送られ、深莉は子俊とならんで歩く。耀河沿いに歩きながら、子俊が深莉に尋ねる。

「どこか行きたいところはあるか?」

「……特に考えていないが」

「なら、芝居小屋に行かないか。今、旅芸人が来ているらしい」

 どうやら、ちゃんと調べていたらしい。深莉はちょっとびっくりした。深莉はあまり表情にでない方なのだが、付き合いの長い子俊にはばれた。

「お前、何それビックリ! みたいな顔するな」

「……いや、実際ビックリしたからな」

 正直に答えた深莉であるが、子俊の表情を見てこの返答はまずかったのか? と思う。今更彼も、深莉に普通の女性のような反応は求めていないだろうが、自分でももう少し可愛げのある性格ならよかったのに、と思うことはある。何故子俊も、亡き叡香も深莉を好きになったのか不明だ。深莉だったら、絶対に自分を選ばない。


 深莉は手を伸ばして子俊の手に触れた。子俊が深莉の方を見る。どきりとした深莉であるが、覚悟を決めて手を握った。背丈はそんなに変わらないはずなのに、大きな手だった。

「……行こう」

「……ああ」

 緊張気味の深莉に対し、子俊は相変わらず柔らかく微笑んだ。何なのだろう。落ち着かないからやめてほしい気もするが、特別だと言われているようでうれしい気もする。

「そう言えば、その芝居小屋、どこにあるんだ?」

 流れで先導するような形になっていた深莉が振り返って尋ねた。子俊ははっとした様子で、逆に深莉の手を引いた。

「こっちだ」

 手をひかれて、深莉は少し笑った。行く前はどうなるかと思ったが、結構楽しいかもしれない。











ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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