三十一話
「おはよう」
いつもより遅く刑部に顔を出すと、官吏たちが「おはようございます」とちょっと間延びした声で言った。奥の自分の席に籠を置いた深莉に、梓宸が尋ねた。
「幽霊……いました?」
「幽霊はいなかったな」
深莉の回答に梓宸はほっとした表情になった。たぶん、後宮に行くのがちょっと怖くなっていたのだろう。
「それで、お姉さん。それ何? 差し入れ?」
などと近寄ってきたのは卯侍郎である。深莉が違う、と答えようとしたとき、籠の中で子猫がみゃあ、と鳴いた。
「え、何? お前何可愛い生き物連れてんの!?」
布をずらして子猫を見た卯侍郎が言った。梓宸も立ち上がり籠をのぞく。
「か、可愛いですね……!」
頼りない子猫たちに、官吏たちはみんなめろめろである。
「この子たちが幽霊の正体だ」
「……左様で」
梓宸は複雑そうな目で子猫たちを見た。子猫はみゃあ、と鳴く。
「どうしたの、みんな元気だね。騒がしくて寝られないじゃないか」
「いや、職場で普通に寝ようとしないでくださいよ、安尚書」
刑部尚書が尚書室から顔を出して言った。いつも通り、眠そうに眼はとろんとしている。四十に届く手前のまだ若い尚書だが、何故か老成した印象を与える不思議な人だ。逃げ足が早く、いつも捕まえるのに苦労する。
「小姐、今日は遅かったな。そして珍しいものを連れているな」
「尚書、いまどき小姐とか、尚書じゃなかったら殴ってますよ」
さすがの深莉だって面白くないことがいくつかあるのだ。小姐とは、商売女に呼びかける呼び名だ。いや、もともとは若い女性に対する呼びかけであるが、現在では商売女を意味することが多いので、小姐と呼ばれるのを嫌がる人は多い。深莉はそこまでではないが、いい気分ではないのは確かだ。
「そりゃあすまん。それで……子猫か。小姐にしては可愛らしいもの連れてるなぁ」
「……」
また小姐と呼ばれた。もうあきらめようかな、とちょっと思った。深莉は籠を手にし、安尚書に押し付ける。
「尚書、この子たち、見ててください。この子たちの世話をして、一日ちゃんと席に座っていてください」
「え、何その楽しいお仕事。いいよ」
「乳は一刻ごとに飲ませてください。排泄のお世話もお願いします。体温が下がるといけないので、定期的に様子を見てください。尚書、お子様がいらっしゃいますから、できますよね」
「……やってみよう」
いろいろ注意事項を言ったのだが、引き受けてくれるらしい。深莉は安尚書に猫たちを預けた。それから念押しを忘れない。
「その子たち、返してくださいね。主上が会うのを楽しみにしていますから」
「……」
安尚書、ちょっと欲しかったらしい。
△
珍しく安尚書が刑部にいることと、かわいらしい来客のおかげで、本日の刑部を訪れる者は多かった。特に女性官吏。
「可愛いですねぇ」
と、まだ十代の天才少女が子猫を抱っこしてかわいがっている。
「お姉様、この子たちのお名前は?」
「昨日拾ったからまだつけていない。今日、主上に付けていただく。おい、ここ違う」
「すみません……」
深莉は言葉を話す頭と考える頭が別に出来ているらしく、会話をしながら資料に目を通すことができるので非常に効率的である。
そんな感じで穏やかに時間が過ぎていたのだが、たまにある駆け込みがあった。こう言った駆け込みは、何故か卯侍郎や安尚書ではなく、深莉の元へ来る。
「皓月! 予算が足りない!」
「……知らん」
深莉は見たことのあるその顔を見て速攻で言った。彼女は膝の上で子猫を撫でている。若い官吏は両手を深莉の執務机の上に振り下ろした。
「何をする」
「……いやすまん」
その官吏……戸部の宋官吏は深莉の同期である。深莉の時の状元及第者だ。ちなみに、深莉は榜眼及第者である。
「もうすぐ、鎮魂祭があるだろ」
「あるな」
そう言えば、静花がそれの夢を見たと言っていたか。予知夢であるのか、過去視であるのかは不明だが、周家の血を引いている彼女なら不思議はないと思ったのは覚えている。
「皇太后がいきなり規模を拡大して、予算が足りねぇ……!」
「何故私に言うんだ。それは戸部と礼部の間で折衝することだろう」
膝の上の子猫が甘えるように鳴く。ちゅうっと深莉の指に吸い付いた。おなかがすいたのだろうか。
「そうなんだけど……そうなんだが!」
「特別決算を望むなら、それは中書省に」
「わかってるつうの!」
宋官吏は深莉より上位で科挙を通過しているので、わかっていて当然であることは深莉も理解している。単純に深莉は、相手を落ち着かせるのが苦手なのである。
「……法律の範囲内で、金を流用することってできる?」
「うむ」
深莉の返答と同時にみゃあ、と子猫はまた鳴いた。宋官吏が深莉の膝の上に目をやる。
「……何可愛い生き物連れてんだ、お前」
「うむ。世話をしているのでな」
顎の下を撫でてやると、満足そうに眼を閉じる。腹が減っているのかと思ったのだが、眠かったのだろうか。
「……気ぃ抜けるんだけど……」
勢いをそがれた宋官吏の様子に、深莉はこれからも子猫を連れてこようかな、とちょっと思ってしまった。
「ちょっとこいつを頼む。調べてくるから」
宋官吏に子猫を預けて深莉は記録を探す。いくつか引っ張り出して写したものを彼に渡した。
「じゃあ頑張れ、戸部尚書殿」
「お前も早く尚書になれよ! 手ぇ抜きやがって!」
宋尚書は子猫を深莉に返し、代わりに写しを受け取るとそう吐き捨てて戻って行った。深莉は子猫に温めた牛乳をやろうと用意をし始める。
「周侍郎、手を抜いたんですか?」
「いや、別に? だが、科挙の記述試験の最後に、現在の政策について自由に記述せよ、と言う欄があるだろう」
「ありますね」
科挙の問題は毎年変わるが、この問いだけは絶対に出る。深莉の時も、梓宸の時もそうだったらしい。聞いたところによると、榮河の時も出ているし、卯侍郎の時も出ているらしかった。
「あの問いに科挙制度の穴について記述したら、榜眼だった」
ほかの問題も、殿試の回答もほぼ同じだった深莉と宋尚書である。その自由記述欄が一位と二位の差なのだろう。たぶん。
「……前から思ってましたけど、周侍郎ってほんっとうに頭いいですよね」
「そうでもない」
深莉は答えながら子猫に牛乳を与えた。本当は猫の乳のほうがいいのだが、入手するのがさすがの深莉でも難しいのである。
「梓宸は探花及第だったか。そんな優秀な官吏が刑部に来るなんてなぁ」
と口をはさんだのは卯侍郎である。上位及第者は中央に留め置かれることが多いが、たいていは吏部か戸部にやられることが多い。まあ、深莉も初めは兵部に置かれたけど。
「……数年後、地方に行くんでしょうか。周侍郎は行ったことがあります?」
「私の場合は官吏三年目で妖魔戦争が起こったからな。その辺はうやむやにされた。まあ、一度監察御史はしたことがあるな。榮河は二年前まで州刺史をしていたぞ」
「……そうなんですね」
地方を回ることはその官吏の力になる。深莉の場合は、監察御史としての地方巡回で建て替えられてしまったが、本来は一度、地方を経験しておくもの、らしい。先ほどの宋尚書だって行ったことがあるはず。
「……まあ、地方も楽しいぞ、きっと」
「行ったことない人に言われたくないんですけど」
まったくもってその通りである。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
嬢ちゃんというか、姉ちゃんと方が近い?




