十五話
夏がやってきた。夏だ。納涼節を終えた後、待ち構えていたかのように一気に暑くなった。当たり前だが、禁城内も暑く、はかどる仕事もはかどらない。さすがに深莉も暑さにうなっていた。深莉の実家は北部の州である。十年以上、洛耀で暮らしている深莉は慣れてきたが、今年来たばかりの静花などはきついのではないだろうか。
「皓月。お前、水切らすなよー」
「そう言うなら桶を置かせてくれ」
「そりゃ駄目だろ」
深莉は仕事を始めると集中力が途切れないので、熱中症で倒れた前科がある。扇子を仰ぎながら器から水を飲む。窓は全開だが、風がないので涼しくない。
深莉は書類に目を通していくが、間違いが多い。みんな暑くてボーっとしているのだろう。
「……卯侍郎。うちの尚書はどこに行ったんだ?」
「ちょっと散歩してくるとか言って、もう一刻経ってるぜ。どっかでぶっ倒れてるかもな」
次官の二人はまだそれなりに頭が働いている。ぱたぱた扇子で仰ぎつづける深莉の前に、卯侍郎が伸びた。
「なぁ、皓月。もう何日雨降ってねぇの?」
「知らん。何だ。絵日記でもつけているのか」
「違うって。私塾の宿題じゃねーんだぞ。そうじゃなくて、渇水にならないかってこと」
「それを心配するのは工部の役目であろう。耀河が枯れるとは思えんが……まあ、もうしばらく雨は降らんだろうなぁ」
深莉は首だけまわして窓の外から空を見上げる。からっと晴れたいい天気だ。
「雨が降れば多少涼しくなると思うんだけどなぁ……なあ、お前、雨乞いできねぇの?」
「雨乞いでこの京師洛耀に雨が降るはずがなかろうて」
「え、どういうことですか?」
仕事に身が入っていない梓宸が尋ねた。他の官吏たちも意識をこちらに向けているのがわかる。
「そこまで私の力が強くないと言うことだ」
「え、普通に妖魔倒してましたよね」
「妖魔を斬れる神器を使えば、誰でも倒せる」
訓練を受けていれば、だ。梓宸ははぐらかされたことに気付いたのだろう。面白くなさそうな表情になった。
「周侍郎、秘密主義」
「世の中、知らなくてもいいこともあると言うことだ。と言うか、この資料」
梓宸に資料を返そうと立ち上がった瞬間、めまいがした。あわてて執務机に手をつく。
「大丈夫か!?」
「周侍郎、大丈夫ですか!?」
卯侍郎や官吏たちが深莉を気遣う。支えようと差し出された手を深莉は断る。
「いや、大丈夫。ちょっとめまいがしただけだ」
「大丈夫じゃないだろ。お前、いいから今日は帰れ」
「いや、しかしだな……」
「意識あるうちに帰っとけ。倒れたら洒落にならん」
「……承知した」
卯侍郎が言うことも尤もである。深莉は息を吐き、とりあえず今日は帰ることにした。おそらく、軽い熱中症だろう。こまめに水分補給はしていたのだが、それだけでは補えなかったらしい。
「……では一つだけ。尚書が池の近くで寝てるから、回収しておいてくれ」
「お前行先聞いてたの!?」
「そう言うわけではないが」
ちょっと心配だったので、占ってみただけだ。こうした探し物の占はよく当たるのだ。
「わかった。わかったら、安心して帰宅しろ」
「相わかった。では、すまないがよろしく頼んだ」
「任された」
卯侍郎の頼もしい返事を聞き、深莉は本当に邸に帰った。すると、当たり前だが範夫婦が驚きの表情を浮かべた。
「まあまあ、どうなさったのですか」
「少し体調が悪くてな」
言葉を濁したのに、「熱中症ですか」と範夫人に言われた。まあ、この季節に体調が悪いと言えば、まずはそれを疑うな。
「というわけで、少し寝る。半刻ほどたったら起こしてくれ」
「かしこまりました」
範夫人は微笑んでうなずいた。深莉はとりあえず水を飲むと、窓は全開で風の通りを作り、その上で少し眠ることにした。
眠くはなかったのだが、目を閉じるとすぐに夢の中に落ちた。そして、いくばくもしないと思ったころに範夫人に起こされた。
「深莉様。失礼いたします」
眼を開くと、申し訳なさそうな表情の範夫人と目が合った。深莉は何度か瞬きして言った。
「……半刻経ったか?」
「いえ。まだ、四半刻ほどですね」
そうなのか。しかし、半刻を待たずに範夫人が深莉を起こしたと言うことは、何かあったのだろう。
「どうかしたのか?」
身を起こしながら尋ねる。範夫人は「どうかしたんです」とうなずく。
「実は、静花様がいらっしゃいました。何でも、明日は学術院の講義がお休みらしくて」
「ほう。珍しいな」
今までも講義が休みだったことはあったはずだが、静花が深莉邸を訪ねてくるのはめずらしい。一応、深莉が彼女の後見人なので、休養日に家に帰る、と言うのならやってくるのはこの邸であることに間違いはないのだが。
「……まあ、一応顔を合わせてくるか」
「お願いします。何やら、深莉様に話したいこともあるそうで」
何だろう。武科挙の突破方法なら教えないが。そもそも受けてないけど。
一応部屋着に着替えて居間に行くと、静花はもくもくと氷菓子を食べていた。範が深莉を見て困ったように笑う。
「申し訳ありません、深莉様。静花様が暑いとおっしゃるので、つい」
「あ、姐さん。お邪魔してるし、いただいてます」
「ああ、まあ、構わん」
一応静花は挨拶をしたが、口の中に氷菓子が入ったままだった。深莉はそれなりに高給取りなので、この暑い時期に氷菓子が普通に置いてあったりする。彼女の術で、保存しておくことができるのも大きい。本当はそう言う使い方はしてはいけないのだが、深莉も暑さには勝てない。
「これおいしいね! もう一杯!」
「やめておけ。腹を壊す」
お代わりを要求する静花に、深莉は冷静に言った。暑いし、もう一杯食べたいのはわかるが、暑からと言って冷えたものを食べすぎるとおなかを壊してしまう。
「むう。姐さん、お母さんみたい」
「私にはお前の保護責任があるからな」
深莉はそう言って腕を組んだ。静花は「ふうん」と気のない様子を見せる。
「っていうか、姐さん、この時間まだ仕事中じゃないの?」
「体調が悪くて早退してきた」
「え、そうなの」
悪い時に来ちゃった? という静花に、深莉は気にするな、と返した。実際、術で保護している深莉邸は、禁城よりもやや涼しい。
「まあ、私も珍しいだろうが、お前も珍しいな。ここに来るとは」
「あ、うん。姐さんに聞いてほしい話があってね」
聞いて聞いて、と静花は身を乗り出す。
「夢を見たの!」
「……」
たいていの人は寝たら夢を見るだろう。見ない、と言う人もいるが。だが、静花はそう言うことを言っているわけではないだろう。
「あのね、何かの祀りだと思うの。大きな祭壇で、美蘭様が何か祈っているの。そこに姐さんもいてね」
静花が夢見たことをとりとめなく話す。どうやら、秋ごろ行われる鎮魂節の祭祀を言っているようだ。静花はこれを見たことがないので、おそらく、本当に『夢見た』のだろう。この場合は正夢に近い。
「ねえ。これって予知夢なのかな」
「過去視かもしれんが、どちらにしろ、お前も周家の娘だと言うことだな」
「やっぱり!? あたしにも姐さんみたいなことできる?」
「無理だな」
きっぱり言い切った深莉に、静花はむくれる。
「むう。力が足りないってこと?」
「私の使い方が特殊なだけだ。術を使いたいのなら、兄上に頼め」
「お父様?」
静花がこてん、と首をかしげた。静花の父親は深莉の一番上の兄であり、深莉が知る限り、彼が一番うまく術を使いこなしている。深莉の兄弟は生まれた順番が後になるほど、頭がおかしい傾向にあるのだ。ちなみに、そう言う深莉は上から四番目である。
「さて。静花。少し早いが、桃が手に入ったのだが、食べるか?」
「食べる!」
あからさまに話を逸らした深莉であるが、全力でうなずく姪に、少しだけ目を細めて微笑んだ。
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この世界は猛暑だけど、現実世界は寒い!




