一人と一匹(1)
大正の世には、小さな平成があった。小さな今が、芽吹いていた。
芽吹いた双葉は百年過ぎて、緑葉映える大樹となれども、その根元は変わらない。時の流れと共に価値観や生活環境は変われども、人の心は変わらない。貧困や格差は無くならない。
明治改元より五十年を祝う式典が行われた年のこと。帝都では鎌鼬の仕業とされる連続殺人事件が相次いだ。犯人は太い血管を一瞬で切り裂き絶命させ、狙った人を誰一人として生かさなかった。警察は躍起になって犯人を捜したが、その尻尾に触れる事すらできなかった。鎌鼬は日々傲慢な態度をとっていた警察を風に撒くだけ撒いて犯行を止めた。何の前触れも、予告もなしに。
それから二か月後。今度は強盗事件が相次いだ。警察は特徴が一致したことから鎌鼬の犯行と疑ったが、すぐに撤回した。怪我をした人が居なかったからだ。犯人は金目のものを狙わず、食べ物や衣類ばかりを狙った。だが、それも翌年にはパタリ止んだ。この二つの事件は世間一般に大正の未解決事件として知られていた。
その正体は、存在を忘れられた大神と、大神が祀られる神社へ逃げ込んだ人間だった。
神様にとって、死というものは自分の存在を信じる人が居なくなることだ。
夏至の夜。自分の力が弱まっていることを感じた大神は、人間と白い獣と共に街を襲うようになった。人々がまた、自分を頼りに社へやってきてほしかったから、神様のことを信じてほしかったから、覚えていてほしかったから。
神社へ逃げ込んだその人間にとって、死というものは拒絶されることだった。
嵐が去った夜。倒壊した社で彼は白い狼に助けられた。彼は初めて見る狼が誰よりも信頼できる父親のように感じた。そして、自分をこの境遇へ追い込んだ男女を憎んだ。刺すような蔑みの目線を自分へ向ける人々を嫌った。けれども、傷を負う痛みと、飢えの苦しみだけは理解していた。
「ハイヤー!」
背中に乗った彼が大声で叫び、狼は高台から跳躍した。そして地面に着地するや否や、遠くの光と黒い煙を目指して暗い森を駆け出した。しばらくすると、冷たい風がぴゅぅと囁き、一人と一匹を旋風にした。背中の彼は遠くの赤い光を睨み、雄叫びを上げた。
……さぁ、狩りの始まりだ。