9 フェネオンの十二の魔本
【第九話 エルネスティーネ】
1
「ナンダコレハ……ッ!」
驚愕。インキュバスはただただ驚愕していた。
そこはエルネスティーネの心の中――真っ白い世界。
ただの白ではない。
濁りのない純白の心がそこにはあった。
「馬鹿ナ! 欲望ノ塊デアル人間ガ、コンナ穢レノナイ心ヲ持ツナドアリ得ルワケガナイ!」
清らかな魂を持つ人間など認められない、といわんばかりにインキュバスは叫ぶ。
現に先程の鈴原茜にも醜い感情はいくらでも存在した。
それが当たり前なのだ。
しかし、エルネスティーネの心は違う。
彼女にはただ正義があった。
誰かを守りたいという心があった。
何よりも正しくありたいたいとした思いがあった。
「ウウウ……、心ニ綻ビガナケレバ操レン! ドコカニナイカ、卑シイ欲望ハ!」
キョロキョロと辺りを探すインキュバス。
すると光り輝くものが見える。
「ナンダ……?」
この純白の世界にあって明らかに異彩を放つそれ。
インキュバスはその輝くものを手にとった。
「コ、コレハ……ッ!?」
それはエルネスティーネのかけがえのない記憶。
「オオ……オオオオ……ッ!」
純白の記憶がインキュバスの思念に流れ込んでいく――。
エルネスティーネがまだ五歳だった頃のことである。
彼女は両親と共に小さな家で暮らしていた。
両親は魔物の討伐で日銭を稼ぎ、その生活はとても裕福とはいえなかったが、それでも円満として幸せな家庭であったといえよう。
「私のパパとママは魔法使い。
悪い魔物をやっつけるヒーローなんだ。
夜、パパとママは仕事にいく。
だから夜はいつも一人ぼっち。
ちょっぴり寂しいけれど、朝になったら帰ってくるから大丈夫」
夜、いつものように揃って出掛けていった両親を思って、唄うように口ずさみ、寝床に入るエルネスティーネ。
しかし翌日の朝、エルネスティーネの両親は帰ってこなかった。
「遅いなあ。
ご飯どうしよう……」
帰ってこない両親を心配しながらも、エルネスティーネはパンにジャムを塗って朝食を済ませた。
昼が過ぎても夜になっても両親は帰ってこない。
結局その日、エルネスティーネは一人きりで過ごし床に就いた。
父も母も明日の朝にはきっと帰ってきているだろうと思って。
けれど次の日になっても両親は帰ってこない。
その次の日も、その次の日も。
やがて戸棚のパンが無くなり、エルネスティーネ小さな手で冷蔵庫を空け、中にあるものを食べた。
「もうすぐ帰ってくるよね。
だから、もうちょっとの我慢、我慢」
エルネスティーネは寂しいのを堪え、奮起するように自分で自分を元気づけた。
でも、それから一週間経っても両親は帰ってこない。
「もうちょっとの我慢すればすぐにパパとママは帰ってくるよ。
だってパパとママはヒーローなんだから」
やがて冷蔵庫の食べ物がなくなり、エルネスティーネは食べ物を探して家中を漁る。
見つけたパスタを茹でもせずにそのまま食べた。
見つけた小麦粉は水を混ぜて、大きくして口にいれた。
空腹を紛らわすために水は毎日たくさん飲んだ。
砂糖があった時は水も美味しく飲めたけど、無くなってからは大変だった。
エルネスティーネはそのひもじさを両親への愛情で埋めていた。
そしてまた何日も過ぎると、今度は家から食べ物がなくなった。
「ぱぱ……まま……」
ベッドの上で丸まりながら、うわ言のように父と母を呼び続けるエルネスティーネ。
食べ物がなくなってもエルネスティーネが家の外に出ようとしなかったのは、両親がエルネスティーネに一人で出歩かないように常々言いつけていたからである。
これは偏に魔法の秘匿のため。
エルネスティーネが物心つくまでは、親の目の届かぬところでの一般種との交わりを避けることを目的としたものであった。
両親がいない中、その言いつけ――約束は、エルネスティーネにとって心の拠り所である。
両親との約束を守っていれば、両親はすぐに帰ってくる。
そんな根拠のない考えにエルネスティーネはとらわれていた。
だからエルネスティーネはどれだけ空腹に悩まされようとも、絶対に外へは出ようとしなかったのである。
「……おなかへったなぁ……」
頭はぐらぐらと揺れている。
もう、起き上がって水を飲む元気もない。
飢えるのを待つだけの状態。
するとエルネスティーネは、薄れゆく意識の中、誰かが家に入ってきた気がした。
足音は段々と近づいてくる。
「ぱぱ、まま……おかえり……」
部屋に入ってきた二人の“男”。
両親の判別もつかないほどに憔悴しきったエルネスティーネは、彼らに小さく呟いて意識を手放した。
さて、魔法使いの子が孤児になるというのはよくあることである。
“魔とかかわるもの”の討伐を常としているのが魔法使い。
時には凶悪なものが敵となり、その命を散らしてしまうことなどは珍しくもない。
この時、身寄りがなかったり、貧困と隣り合わせの暮らしをしている家庭では、親が死ねば、必然その子供は孤児になるしかないのだ。
当然、一般社会に魔法の流出を防ぐため、魔法使い専用の児童養護施設がある。
魔法社会での戸籍管理は厳しく行き届いており、孤児の施設への入居率は百パーセントを誇っていた。
「ううん……」
エルネスティーネが目を擦りながら起き上がる。
「えっ、あれっ?」
そして困惑した。
知らない部屋で、知らないベッドに寝かされていたからである。
「パパ……ママ……どこ……?」
部屋を出ようとして、そこでちょうど入り口のドアを開けて現れた見知らぬ男。
「座れ」
男の迫力に圧され、言われるがままエルネスティーネはベッドに腰掛けた。
「いいか、お前の両親は死んだ。
だからお前はここに連れてこられた。
まずはそれを理解しろ」
告げられた残酷な現実。
それを嘘だとエルネスティーネが叫ぶことはなかった。
幼いながらも聡明であった彼女は、心のどこかで既に両親が死んでいたことを理解していたからだ。
そして今、誰かにそれを伝えられて漸く両親の死を認めることができたのである。
「パパ……ママ……」
ずっと離れることはないと思っていた。隣にいることが当たり前だと思っていた。
両親の死を知って、エルネスティーネの目からはただ涙だけが流れた。
その後、男から施設の説明を受け、施設での生活が始まった。
慣れない環境での初めての共同生活。
他にもたくさんの子供がいたけれど、皆自分のことに精一杯で、エルネスティーネは右も左もわからずに失敗ばかりしていた。
「なにをやっているエルネスティーネ!」
職員から容赦なく振るわれる暴力。
はじめの内は泣いていたが、泣けば暴力がもっと酷くなる。
エルネスティーネは、たとえ殴られようとも蹴られようとも泣いてはならないことを学んだ。
そして暴力そのものを受けないために、周りがやっていることを見て、必死に施設での生活の仕方を覚えた。
まだわずか五歳である。
夜はボロボロのベッドの中で毎日泣いた。
施設に入所してから三ヶ月。
それなりに施設の生活にも順応したエルネスティーネであったが、ある日、別の施設へと移されることになった。
そこは不幸にも、孤児を魔法兵器として育てる施設。
前の施設は才能を持つ者を選別する篩であり、孤児らに常識を植え付ける教育機関であったのだ。
エルネスティーネの辛く厳しい訓練の日々が始まった。
新たな施設では生活の全てが、魔法兵器になるためのもの。
指導と称した、前の施設とは比べ物にならないほど苛烈な暴力が日常的に振るわれ、共に暮らしていた子が見せしめに殺されることもあった。
そして、エルネスティーネからは涙が失われる。
いや、涙だけではない。
ただ自身の命を繋ぐためだけに、敵を殺す兵器として、心の中は真っ白で何もない空虚になっていたのだ。
十歳の頃のこと、エルネスティーネは初めて実戦を経験することになった。
敵は最近になって、とある山を住みかとした一つ目の魔獣である。
「いいか、我々指導陣が手を出すとすれば、それはお前達が死んだ時だけだ。
ただ敵を殺せ。そうすることこそがお前達の生存の道だ」
入山前の教官の言葉。
その後に、エルネスティーネは他の孤児と共に五人分隊となり、魔獣の住む山へと入っていく。
そして、一隊は中腹にてその魔獣に遭遇した。
誰一人として油断はない。
各人が生き残るために、兵器として持てる力の全てを尽くした。
しかし、恐るべきは魔獣の尋常ならざる強さである。
エルネスティーネの分隊は何ら報いることもできずに敗れた。
分隊の五人のうち四人は死に、エルネスティーネも腹に大きな裂傷を負って瀕死の状態であった。
「はあっ……はあっ……はあっ……!」
一本の木に背中を預けるエルネスティーネ。
仲間が食われている間に、エルネスティーネは辛くも逃げ延びたが、重傷の身の上では遠くには行けず、やがて力尽きてしまった次第である。
するとそこに草を踏む音が鳴った。
現れたのは、牙を剥き出しにした一つ目の魔獣。
もはや死は避けられない。
死が目の前に迫っても、エルネスティーネが何も感じなかったのは、幸であるか、それとも不幸であるか。
そんな時、ふと、忘れていた両親の姿がまぶたに浮かんだ。
「……また、会えるかな」
会えたらいいな、とエルネスティーネは静かに目を閉じた。
そして聞こえてきたのは、魔獣の悲鳴と――
「あらあら、どうしましょう」
――緊張感の欠片もないしわがれた声。
エルネスティーネが無感動にも、助かったのかと目を開けてみれば、そこにいたのは黒いローブをまとった老女であった。
「これは大変ねえ、すぐに手当てしないといけないわ」
老女が眠りの魔法を使い、エルネスティーネはゆっくりと意識を手放した。
2
パチリと目を開けるエルネスティーネ。
広い部屋、天蓋付きのふかふかのベッド、高級そうな家具の数々。
そこが施設の部屋ではないことに、エルネスティーネは僅かに眉を寄せた。
「オキタ! オキタ! ムスメガオキタ!」
籠に入った小鳥が叫んでいる。
エルネスティーネは思考を巡らして、昨日何があったのか思い出す。
あの日、魔獣に襲われたところを老女に助けられたのだ。
おそらくここは老女の家なのだろう、とエルネスティーネは推察した。
深い傷を負ったはずの体を見れば、治療が施され包帯が巻かれている。
「ぐっ……」
ベッドから下りようとして、痛みに呻き声が自然と漏れた。
施設なら減点対象。マイナス百点であの世行きだ。
するとガチャリと扉が開いた。
顔を出したのはあの日の老女。
「まあまあ。だめよ、まだ安静にしてなくちゃいけないわ」
ふわりと魔法で体を浮かせられ、エルネスティーネはベッドに戻される。
「……」
抵抗はしなかった。
あの魔獣を倒した相手なのだから実力差は明らか。
おまけに、この傷ではろくに動くこともできやしない。
ならば、と今はおとなしく休むことにしたエルネスティーネ。
無駄なことはせず、ここを出るのは体調を回復させてから。
そう考えて、布団に潜ろうとした時である。
「……!」
エルネスティーネは下腹部に圧迫感を感じた。
もう限界は近い。
エルネスティーネは再びベッドを降りようとして――。
「はい、どうぞ」
老女から差し出されたのは、首長の動物のような形のガラスの瓶。
感情を無くしたはずのエルネスティーネも、この時ばかりはほんの少しだけ顔を赤らめた。
それから数日後。
老女は甲斐甲斐しくエルネスティーネの世話をしていたが、エルネスティーネが口から出るのはなんの感情も含まない必要最低限の言葉ばかり。
そして現在、エルネスティーネはベッドに潜りながら物思いに耽っていた。
「何故だろう……」
天蓋を眺めながら、エルネスティーネはポツリと呟く。
この老女しかいない屋敷を何度も出ていこうとしたが、それができなかったのは何故か。
傷は既に治っている。
でも痛い振りをして屋敷に留まった。
エルネスティーネは、己の不可思議な行動が不思議でならなかったのである。
すると、そうこうしているうちに部屋の扉がガチャリと開かれた。
「ほら、今日のお昼はおばあちゃん特製のミートスパゲッティよ」
老女が昼食をもって部屋に入ってきたのだ。
エルネスティーネは傷が痛む振りをしながら起き上がる。
それから小さな机で二人向き合って昼食をとった。
温かい。老女と暮らしていると、理由はわからないが不思議なぬくもりをエルネスティーネは胸に感じていた。
「あら、ふふっ。鼻にソースがついてるわよ」
ナプキンでエルネスティーネの鼻の頭をぬぐう老女。
『エル、ふふっ、鼻の頭にソースついてるわよ』
『むーっ、ママぁ、とってとって!』
『はいはい、全く甘えん坊なんだから』
ふいに老女の姿に母の姿が重なった。
優しい母。その隣では父も微笑んでいる。
エルネスティーネの心に父と母の朧気な記憶が甦った。
「うぐっ……ひぐっ……」
ポタポタとこぼれる涙がスパゲッティを濡らす。
「どうしたの? おばあちゃんのスパゲッティ、おいしくなった?」
心配そうに尋ねる老女。
エルネスティーネは首を横に振り、そして言う。
「とってもおいしいよ……おばあちゃん……」
エルネスティーネは泣きながら微笑んでみせた。
「まあ!」
喜ぶ老女の声。
その日、エルネスティーネに再び感情が戻ったのである。
それからエルネスティーネは老女の下でずっと暮らすことになった。
老女はとても有名な魔法使いだったそうで、施設とも既に話をつけているらしい。
屋敷での生活は毎日が素敵だった。
料理を一緒に作り、一緒に食べた。勉強を学び、魔法を学び、老女と同じベッドで眠った。
老女が微笑み、エルネスティーネも微笑み返す。
失われたはずの空虚な時間を埋めていくような、そんな日々が続いた。
やがて四年の月日が流れた。
エルネスティーネは老女の養女となり、名前をエルネスティーネ・ローランス・ノワとした。
ローランスはかつての家名。ノワは老女の家名だ。
そしてベッドに寝たきりの老女と、それに付き添うエルネスティーネ。
かつての頃とはまったく逆の立ち位置であった。
「お婆様……」
老女の身を案じるように呼び掛けるエルネスティーネ。
「昔のように呼んで、エル……」
返ってきたのはとても弱々しい声であった。
寿命。老女の命はもう長くないのである。
魔力を感じることができるからこそ、エルネスティーネはわかる。
次の瞬間には、大好きな老女が亡くなっているかもしれないのだ。
するとエルネスティーネの脳裏に楽しかった老女との思い出が巡った。
その一つ一つがかけがえのない大切な宝物。
「おばあちゃん……! いやっ! おばあちゃん、死なないで!」
エルネスティーネはまるで子供が駄々をこねるように叫んだ。
「ふふっ。久しぶりね、おばあちゃんって言われたの」
「おばあちゃん! 何度だって呼ぶから、だから……!」
「私の大切な子……強く優しく生きてね……」
泣きながら老女のベッドにすがり付くエルネスティーネ。
そんなエルネスティーネを老女は微笑みながら、小さな子供をあやすようにその頭を撫でた。
枯れ枝のように痩せ細り体温も感じさせないような手のひらだったけれど、そこには昔と変わらない温かさがあった。
そしてその日、老女は静かに息を引き取った。
しかし老女の強く優しい生き方は、今でもエルネスティーネの胸にある。
エルネスティーネの真っ白で何もなかった心には、今では老女の純白の強さと優しさがあったのだ。
それは誰にも塗り替えることができない正しい心。
過酷な幼少期を過ごしながらも、エルネスティーネは決して折れることのない絶対の正義を胸に秘めていたのである。
4
「グアア、コンナトコロニイラレルカ!」
心に僅かばかりの穢れすらなければ、いかな悪魔とて乗っ取ることは不可能。
加えてインキュバスは、己の意識が逆に支配される感覚を感じた。
あり得ぬことである。
人間は物質的に片寄った存在であり、インキュバスを含めた魔本の悪魔は精神に片寄った存在である。
それなのに、精神の戦いでインキュバスは人間に敗れたのだ。
もはや寸秒たりともこの場にはいられない。
インキュバスは黒い霧となってエルネスティーネの中から飛び出した。
外界に現れた霧は、インキュバスの肉体を形作っていく。
霧のまま逃げることをしないのは、魔本の悪魔が外界では肉を持たねば存在できないからだ。
そして漆黒の翼と尻尾を生やした妖艶な美女……に見える男の娘が、空に顕現した。
「ヤッテクレタナ、モハヤコレマデ! 鳥ヨ!」
インキュバスの指先から夥しい数の黒い魔鳥が羽ばたく。
その向かう先は、意識のない茜と――
「え、ちょっ、まっ!」
――ボロボロの体であった鏡子の下であった。
「茜ッ!」
悲鳴にも似たエルネスティーネの叫び声。
鏡子を心配する声はどこにもない。
「隙アリッ!」
「あっ」
一瞬の油断。エルネスティーネの意識が茜へと逸れた隙にインキュバスがその翼を羽ばたかせて、足元に転がっていた魔本を手に取った。
「コレハ、イタダイテイクワヨ!」
優々とした表情で翼を広げ、大空に舞い上がっていくインキュバス。
だが、手にあった本にとてつもない力をインキュバスは感じた。
インキュバスが視線を移してみれば、魔本には己のものではないもう一つの手。
「逃がすわけないでしょう!」
そこには機械的な翼を鎧から生やしたエルネスティーネがいたのである。
「ナ、ナナナナナンデッ!?」
あまりの驚きに声をどもらせて、飛行すらも覚束なくなるインキュバス。
エルネスティーネは一瞬で判断していたのだ。
インキュバスを一秒でも早く倒すことが茜を救う道である、と。
「エエイ、コウナッタラ!」
しかし、インキュバスもさる者で、すぐ態勢を建て直し、迎撃に臨んだ。
エルネスティーネが空を飛べるなんてことは鈴原茜の記憶にもなかったことであるが、空中戦ならば、自身に分があると踏んでいたのである。
だが、エルネスティーネについてもう一つ、茜の記憶に無かったものがある。
エルネスティーネの左腕には黒々とした砲身があった。
それは光と闇を操るエルネスティーネの奥の手、闇のエネルギーで光のエネルギーを打ち出すためのもの。
互いの反発を利用した秘術であり、一歩間違えば暴発し腕どころか体までもが消し飛ぶ荒業である。
「食らいなさいッッ!!」
そしてエルネスティーネの全身の魔力が左腕の砲身に集まり、眩い光が発射される。
派手な爆発も何もない、ただ貫くことを目的としたエネルギーの塊。
光はインキュバスの胸を貫き、大地へと突き刺さった。
「ソ、ソンナ……! コノ私ガコンナ小娘ニ……!」
インキュバスが大地に墜落した時、既にその命は絶えており、やがて黒い霧となって消えた。
5
魔鳥が銃弾となって茜と鏡子を襲った。
鏡子はともかくも茜は気を失っており、死は必至といっていいだろう。
すると夢うつつの中で、茜は温かいものを感じた。
誰かに抱き締められているようなそんな感覚である。
「お姉様……?」
まどろむ思考の中、うっすらと目を開ける茜。
そこには、エルネスティーネのスッキリとした胸とは違う、たくましい胸板があった。
どうやら大きな腕で抱かれているようで、茜は全身に力が入らず億劫な体ではあったが、首をなんとかもち上げてその人の顔を見た。
そこにいたのは眉のない男性――三太郎。
「大丈夫だから」
茜の視線に気づいた三太郎は優しく微笑みかける。
すると途方もない安心感が茜の胸の内から湧いて出た。
魔の気配と男の背から聞こえる何かがぶつかる音、今が危機的状況であるのは間違いない。
それでも、今はこのまどろみのなかに。
そう思って、茜は再び目を閉じる。
まるで母に抱かれる赤子のように、安らかな寝顔がそこにはあった。
やがてインキュバスがエルネスティーネに倒されて、魔鳥は霧散する。
「うう……死ぬかと思った」
侵食の杖を再び使い、なんとか生を掴んだ鏡子。
もう魔力はほとんどなく、死に体といっていい状態である。
「茜!」
エルネスティーネが空を飛びながらやって来て、その名を呼んだ。
茜をそっと地面に下ろす三太郎。
エルネスティーネは地に下りて茜へと駆け寄った。
「気を失っているだけだ」
「あぁ、茜……よかった」
いとおしそうに茜を抱き締めるエルネスティーネ。
ひとしきり喜びを噛み締めると、エルネスティーネはそっと茜を下ろし、三太郎に正対する。
「この度は本当にありがとうございました」
エルネスティーネは深々と頭を下げた。
三太郎が「気にするな」と言うと彼女は頭を上げて、インキュバスの魔本を差し出す。
「茜のことがありますので、私はこれで失礼させていただきます。お礼は後日に必ず」
「……魔本はもういいのか」
三太郎は生徒会長云々の話こそ知らなかったが、これまでの経緯から、魔本を集めることがなんらかの功績に繋がるであろうことを予想していた。
すると、エルネスティーネは言う。
「未熟者の私がそれを手にするわけにはまいりません。麻宮さんに託します」
未練はない。茜が無事であった、それだけでよかったのだ。
そしてエルネスティーネはとても気持ちのいい笑顔を浮かべて、去っていった。
それを見送った三太郎はへばっている鏡子を一瞥した後、散らばる他の魔本を拾っていく。
「ほらよ」
三太郎は魔本を全て拾うと、はしたなくも大の字に寝ている鏡子の横に魔本を置いた。
すると現金なもので、鏡子はムクリと上半身を起こし、魔本をコートのポケットに入れていく。
そして、それが終わると鏡子はボソリと呟いた。
「なんかもうどっと疲れたわ」
愚痴。相手が三太郎であろうとも、愚痴らずにはいられなかったのである。
「今後はどうするんだ?」
「どうするも何も、あとは帰るだけ――っ!」
「どうした?」
「……また顕現したわ。それも同じ場所で、おそらく残りの悪魔全部……。
悪いけど私はもう動けないわ。方角を教えるからあなただけで行って」
新たに六匹の悪魔が顕現するという非常事態。
さらには、魔力がないから、もう動きたくないと言う鏡子。
しかし、そうは問屋が卸さない。
「……乗れ」
身を屈めて、鏡子に背中を向ける三太郎。
嘘でしょ? と鏡子は言おうとしたが、三太郎の目は異論を許さんとでもいうように大マジだった。
鏡子は身体の痛みに耐えつつ、心の中で涙を流しながら、いそいそと三太郎の背に乗った。