4 フェネオンの十二の魔本
【第四話 炎の悪魔】
1
鏡子と三太郎が疾風となりて、夜の闇を切り裂くように市街を駆ける。
そしてたどり着いた先――悪魔の反応があった場所には垣根のある一軒家があり、それは轟々と真っ赤な炎に巻かれていた。
「燃えてるわね……」
ボソリと呟いたのは燃える家の前で立ちすくむ鏡子。
体からは冷や汗がだらだらと流れ、胸の下では心臓がものすごい勢いで脈打っており、明らかに平常な状態ではなかった。
その原因は悪魔を恐れてのことではない。
悪魔よりももっと恐ろしい男、三太郎を恐怖してのことだ。
魔本が一般種を犠牲にした。
果たしてその責任はどこにあるのか。
無論のこと、三太郎は魔法使いに責任を求めるであろう。
「……なあ」
三太郎の呼びかけに、ビクッと鏡子の身体が跳ねた。
心臓はその動きをさらに活発化させ、もう身体の外へ逃げ出してしまいそうなほどに暴れている。
「なんで家が燃えてるのに誰も騒がないんだ? 消防車のサイレンの音すら聞こえないんだが」
鏡子は振り向けない。わかるのだ、三太郎の怒りが。
どれほどの力で拳を握りこんでいるのか、ミシミシと骨の軋む音が背後から聞こえてくるのである。
要するに彼はこう言いたいのだ。
――また魔法使いが余計なことをしたのではないか、と。
「こっ、こここここれは、け、結界が張ってあるの! ほ、他の人には家の状況が、わからないようにする結界が!」
震える声。声だけではない、鏡子の足もガタガタと震えている。
その脳裏にはセレスの死に様が今もくっきりとこびりついており、自身が死ぬ未来もまぶたの裏にちらついていた。
「ほう……。じゃあ、その結界のせいで消防車も来ないというわけか……」
ギリリという奥歯を噛み締める音。
鏡子は、ノコギリで人の首を切断する音とはこんな感じではないだろうかと思い、ヒィと心の中で悲鳴を上げた。
彼女の死は面前へと迫っていたのである。
「ち、違うわ! いや、違わなくはないけど、こ、この結界は炎を内側から防ぐためでもあるの!
よく見て! 炎があの位置で弾かれているわ!」
鏡子が指差した先では、そこに見えない壁でもあるように炎が弾かれていた。
それこそは魔法使いが張った結界である。
「……それで? 火が外に出られないということは中の人はどうなったんだ?」
地獄の釜の底から湧き上がるような、おどろおどろしい声が響いた。
言わずもがな、中の人が結界の外に出ることはできようはずもない。
「そ、そんなことよりも、今はあの火を何とかすることが先決でしょう!
もしかしたら、中にまだ人が生きているかもしれないわ!」
鏡子は秘奥義、論点のすり替えを繰り出した。
これを使われた者は、意識を別の方へと向けるのだ。
「……」
鏡子の作戦は成功したようで、三太郎は考え込むように沈黙する。
とはいえ、火は既に家全体に回っており、住人が生きている可能性は万に一つもないだろうと鏡子は考えていた。
だが、もしかしたらということもある。
それに、中からは悪魔の気配があった。
鏡子はこれに賭けた。
毒を以て毒を制す――悪魔(三太郎)に悪魔をぶつけるのである。
「……結界を壊さずに中に入ることは可能か?」
「内側に封じ込める結界、それもかなり強力なものだから、外に起動するための媒体が幾つかあるはずよ。
内側からの制御は無理だけど外側からなら簡単に操作できるはずだわ」
「ならさっさとやれ」
「わ、わかったわ」
鏡子が玄関から敷地内に入り、その後に三太郎も続く。
結界の媒体とは、結界の起点となるべきものであるから、見つけるのは容易い。
基本的には結界の中央、もしくは角に媒体は存在する。
今回の場合、内側に封じ込めるための結界なので、中から操作される恐れのある中央にあっては本末転倒。
というわけで、鏡子は四角い結界の角となっている場所に結界の媒体である魔法石を見つけた。
「あったわ。
ほんの一瞬解除して、その間に中に入り、また結界を閉じれば炎も外に漏れないはずよ」
「俺が中に入る。合図しろ」
「ちょっと待って」
三太郎を呼び止める鏡子。
鏡子が手をかざすと、三太郎にまとわりつくように光の粒子が舞った。
「耐火の魔法よ。これで服もそう簡単には燃えないわ」
無論、善意からの行動ではない。
媚を売り、三太郎が悪魔を倒した際には、命ばかりは助けてもらおうという打算的な考えによるものである。
「……」
だが、耐火の魔法に対し三太郎はなんら反応を返すことなく、そのまま玄関の前へと進んだ。
それを鏡子は、『ちょっとは感謝しなさいよ』と内心では愚痴りながらも、表では深刻な顔を崩さない。
「……今!」
そして鏡子の合図と共に、三太郎が炎の中に入っていった。
2
どこもかしこも真っ赤な炎に包まれている。
まさに夜を忘れるような世界。
火の海といっても過言ではない有り様にもかかわらず、未だ家の姿を保ち続けているのは、その炎が魔法の産物であるからである。
そこにミシリという音を伴って、三太郎が玄関を上がった。
火の粉が三太郎の頬を撫でる。
しかし、その皮膚を焦がすことはできない。
また、火先が掠めても服が燃えないのは、鏡子の魔法のおかげであった。
「誰かいないか!」
家中に響き渡る声で叫ぶ三太郎。
その呼びかけに返事はない。
三太郎は燃え盛る火炎の中、足を進め、一階を一通り見て回るとその瞳を階段へと移す。
「二階か……」
一階には人の影すらなかった。
三太郎は火に炙られながら、二階へと続く階段を上っていく。
するとその途中、ぐっちゃぐっちゃという耳障りな音が三太郎の耳に聞こえてきた。
四周より炎の音が響く中、それはあまりに小さな音。
しかし、聞き逃すには少しばかり異質すぎる音であった。
三太郎はふと考えて、すぐにその音の正体に思い至る。
――咀嚼音。
大口を開けて、下品に音を立てながら何かを食らっている音だ。
ではこの炎の中、誰が何を食べているのか。
それは考えるまでもないことであろう。
三太郎は全身を炎よりも熱く燃やしながら、一歩一歩、音の方へと進んだ。
そして、二階の一室にそれはいた。
炎のように真っ赤な体躯で、額から二本の角を生やした明らかな異形、それはまさしく悪魔。
床に並んだ人間の肉を、腸を、その悪魔は食らっていたのである。
「おい」
三太郎が呼びかけると、悪魔は「アア?」と三太郎の方へと振り向いた。
「ハハ、新ナ獲物カ。コレハイイ、マダマダ食イ足リヌカラナ」
悪魔は馳走を前にしたかのように笑い、そして立ち上がる。
三太郎と変わらぬほど巨大な体躯をした悪魔。
三太郎と赤い悪魔――二匹の巨獣が向かい合う。
「……何人殺した?」
三太郎の体には今にも破裂しそうなほどの怒りが充満していたが、その憤怒を圧し殺して詰問した。
「ウウーン、ソウダナ……オ前デ五人目カナッ!」
言い終わると同時に悪魔が三太郎に向かって駆け出した。
それは人では決して辿り着けないであろう速度。
そして、悪魔は刃のように鋭く硬い爪を三太郎へ向けて振るう。
それは鉄すらも容易く断ち切る爪である。
「……アレ?」
すると何が起きたのか、悪魔は首をかしげた。
悪魔が振るったはずの腕。いや振るうはずの腕が、振るわれなかったことに怪訝な顔をしたのである。
悪魔は、もう一度腕を振るうがやはり腕は振るわれない。
そして漸く悪魔は気づいたのだ。
「ナ、ナンデ俺ノ腕ガナイノ?」
悪魔は自身の右腕があった場所を見て狼狽える。
さらに、腕はどこにいったのかと視線をさ迷わせた。
そして見つけた。
「ナ、ナンデオ前ガ俺ノ腕ヲ持ッテイルンダヨォ!」
三太郎の左手には、片袖から千切られた赤く逞しい腕が握られていたのである。
そして、三太郎は無表情のまま言う。
「五人目は俺じゃなくてお前だったな」
三太郎が悪魔のちぎれた腕を強く握りしめると、前腕部にもう一つ関節が増えて地面に転がった。
「キッ、キサマッ! コノ俺様ガ五体目ノ死体ニナルダトッ!」
悪魔が吠えるが、それに三太郎は動じることなく言う。
「五人目というのは訂正する。罪のない人とお前を同列に並べたくはないからな。だからこう言おう。
――今日俺に殺されるゴミはお前で二人目だ」
あまりの物言いに悪魔も頭に血が上った。
三太郎に魔力は存在しない。
それすなわち、三太郎はただの力ない人間であると悪魔は考えた。
そんな者からの侮辱は屈辱であり、許せるものではない。
腕を切られた以上、隠された何かがあるとも悪魔は思ったが、それに注意を払うよりも三太郎に対しての怒りが勝った。
「ナメルナッ!」
後ろに飛び跳ねると同時に灼熱の炎を吐き出す悪魔。
周囲を囲む炎はいわば悪魔にとって巣であり、燃やすことを意図したものではない。
だが三太郎に向けて吐き出した炎は違う。それは、あらゆるものを燃え尽くさんとした地獄の業火である。
悪魔が放った炎のブレスは三太郎を呑み込み、それでも勢い衰えず、その先にあるものを黒い墨へと変えていった。
悪魔は炎のブレスを吐き続けながらニヤリとし、そして見た。
炎の中に映る人影――倒れることなくゆっくりと自身の方へ向かってくる、それを。
三太郎である。
悪魔は、『何故死なない、何故燃えない』と恐怖した。
ありえないことである。
魔力をもたない人間などは、魔力を持つ者――特に悪魔のような強大な生物からすれば、藁で作られた人形でしかない。
それなのに、三太郎は決して倒れない。
すると悪魔は炎を吐くのをやめて背後へと逃げ出そうとした。
勝てないと、このままでは殺されると判断したのだ。
しかし三太郎は、一瞬で悪魔に追い付くと、その首を掴み無理矢理に引きちぎった。