3 フェネオンの十二の魔本
【三 魔法使いの言い分】
1
豆電球の茶色い光が照らす薄暗い部屋。
開けっぱなしの窓からは、冷たい夜風がカーテンを揺らし、床に横たわるセレスであったものの銀色の髪を優しく撫でた。
そして部屋の端へと目を移せば、そこには床にへたり込む鏡子と、そんな鏡子の首へと伸ばされる三太郎の腕。
鏡子にとって、まさに絶体絶命の状況である。
どうする、どうすればいい、と焦るように巡る鏡子の思考。
このまま座せば、待ち受けるのは死以外にはないことを鏡子は理解している。
そして理解しているからこそ、恐怖で身がすくみ、体を動かすことができなかった。
ならばどうすればいいのか。
逃げることも戦うことも叶わぬならば、できることはただ一つ。
「さっ、ささ、殺人よ!」
鏡子は己の生存本能に従い、ただ叫んだ。
するとどうしたことか、三太郎の腕は鏡子の首にかかったところでピタリと止まった。
その目には『なに言ってんだ、こいつ』という色がありありと浮かんでいる。
「……お前達は俺を殺そうとしたんだから正当防衛だ。凶器もある」
「そ、そうね。でも少し違うわ。
あなたを殺そうとしたのはそこの銀髪女であって、私じゃない」
これには三太郎も眉間にシワを作った。
鏡子はそこに生への希望を見る。
「……お前らは魔法使いだと言っていたな」
「え、ええ、そうよ」
「おそらくそれは本当なんだろう。
銀髪女の身体能力、容赦の無さ、謎の発光現象。そして結構な騒ぎであったにもかかわらず、家族からの文句の一つも聞こえてこない。
なにか音を無くしたり、認知を邪魔立てる魔法でも使ったってところか」
「……そのとおりよ」
鏡子は、三太郎のものわかりのよさを不思議に思った。
しかし、三太郎から感じられる魔力は一切ない。
間違いなく一般種である。
とはいえ、そんなこと今はどうでもいい話だ。さしあたって鏡子が問題とすべきは、自身の首に添えられた三太郎の大きな手。
現在の鏡子は、いわば斬首台に首をすっぽりとはめた状態なのだから。
「日本の法律が、お前ら魔法使いとやらに通用するとでも思ってるのか」
「私は日本人よ。戸籍だってあるわ」
「じゃあ、なんで俺が殺されそうになるのを黙って見てた」
「う……」
鏡子の起死回生の口撃――失敗。
鏡子は言い返す言葉もなく、口をつぐんだ。
「まあ、どうでもいいか。どのみち、お前を逃せば今度は俺以外の誰かが犠牲になるんだ。やっぱり、お前には死んでもらうしかないな」
現実はとてつもなく冷酷であった。
鏡子が自分より格上であるとしていたセレスが、手も足も出なかったのが三太郎である。
たとえ現状の金縛りから抜け出しても勝つことはおろか、逃げることすら怪しい相手。
鏡子は斬首台にて執行人が剣を振りかぶった姿を想像した。
しかし、だからこそ鏡子は舌を動かした。
「ま、待って! あなたは勘違いしているわ!
私達は人殺しをしたいわけじゃない! いいえ、そもそも私はまだ誰も殺したことなんてないわ!」
鏡子の必死の弁明。
だが三太郎の反応は芳しくなく、疑わしげな瞳で鏡子を見つめるだけである。
「……いいわ、説明してあげる。
私達はある魔法組織に所属しているの。
今日のことは《フェネオンの十二の魔本》という、世にも恐ろしい悪魔が宿る本を封印するためだったのよ」
「十二の魔本?」
「ええ、《フェネオンの十二の魔本》とは――」
鏡子が三太郎に《フェネオンの十二の魔本》の生い立ちから、その危険性について簡潔に説明する。
曰く、《フェネオンの十二の魔本》はいにしえの魔法使いが作り出した悪魔の書だということ。
曰く、魔法使いの組織が保管していたのだが、何者かの手により市街にばらまかれたということ。
曰く、悪魔が顕現したらそこら中が血の海になるということ。
曰く、警察程度ではどうにもならないということ。
曰く、だから魔法使いが秘密裏に魔本の回収を行っているということ。
「――というわけなの」
どことなくどや顔になる鏡子。
魔法使いは悪事を働いているわけではない。
むしろ世のため人のために無償で働いているんだぞ、という彼女の心意気であった。
だが、話を聞いた三太郎の顔はより不機嫌なものとなっていた。
「結局、お前ら魔法使いが原因なんじゃねえか」
ぐうの音も出ないほどの正論である。
魔本を作り出したのが魔法使いならば、それを保管していたのも魔法使い。
魔本をばらまいたのも、間違いなく魔法使いであろう。
なぜなら魔法は秘匿されているのだから。
「そ、それは……確かにそうだけど……」
言葉が沈んでいく鏡子。
しかし、このままでは自身の命が危ない。
鏡子はすぐに気をとり直して反論する。
「こ、今回のことは私達が原因だけど、それ以外にも私達は、人知れず世を乱している“魔にかかわるもの”を排除しているわ!
幽霊や妖怪、その他の魑魅魍魎! 科学に頼るあなた達じゃあ、絶対に解決できないものばかりよ!」
鏡子はふんすと鼻息荒く自慢げに語った。
幽霊や妖怪、幻獣や悪魔などの科学では証明できない存在――“魔にかかわるもの”は、夜な夜な人に悪さを働こうとするのが概ねの習性である。
これらを魔法使いが排除し、そのおかげで世の人々が安寧に暮らしている、というのは鏡子の言う通り確かなことであった。
「……」
鏡子の大喝に三太郎は沈黙し考え込む。
これは効いたかな? と鏡子は内心でガッツポーズをした。
さらに、『やはり魔法使いは正しいのだ』と自分が魔法使いであることを鏡子は誇った。
だがしかし――。
「……それ、お前達が人知れず幽霊やら妖怪やらを排除しているせいで、こっちの対策が一切進歩してないだけじゃねーのか?」
「ギクリ」
三太郎の指摘は的のど真ん中を射抜いていた。
魔法使いが“魔にかかわるもの”を積極的に排除しているのは、“魔にかかわるもの”を含めた魔法に関する事柄の一切を、一般の者達に触れさせないのが目的である。
魔法使いは考える。
――自分達の領分を侵されてはならない、と。
なぜならば、魔法とは魔法使いが一般社会で好き勝手できるアドバンテージであるからだ。
『魔法を秘匿せよ』
この言葉が善悪問わず魔法使いの絶対順守の理念となっているのは、魔法という己が特権を守るためであった。
「もし、お前らが人知れず“魔にかかわるもの”とやらを排除してなかったら、今頃俺達もその“魔にかかわるもの”に対抗する手段を持ってたんじゃね?」
「そ、そそそそそそんなわけないじゃない!」
「……声が震えているんだが」
誰が見てもわかるくらいに焦る鏡子。
三太郎の考えは全て当たっていた。
だからこそ彼女は狼狽しながらも、何か手はないかと脳を働かせる。
「そ、そうだわ! ま、魔女よ! 魔女狩りよっ!」
ハッと思いついたように叫ぶ鏡子。
それは彼女にとって天恵のような閃きであり、一筋の光明であった。
「あなた達はかつて私達に非道の限りを尽くしたわ!
あなただって魔女狩りくらい知ってるでしょう!!」
――魔女狩り。
今と比べると何もかもが未成熟だった時代のこと、魔法使いは魔法を使えぬ者と共にあった。
特に医療については魔法使いに全てを頼っていたといっていい。
これは、人々にウィルスや細菌といった知識はなく、病気というものが“魔にかかわるもの”のカテゴリーに属していたからである。
魔法使いは魔法によって人々を癒し、そんな魔法使いらを人々は敬っていた。
しかし超常の力を持ち、人々の信望を集めていた魔法使いを時の権力者は恐れた。
いずれ自身に取って代わろうとするのではないかと考えたのである。
そして権力者は、己の地位を守るために、魔法使いにあらぬ罪を着せて軍を差し向ける。
当時、魔法もまた発展途上であり、魔法使いに対しては原始的な武器であっても人数さえ集めれば十分に対抗できたのだ。
魔法使い達は権力者達の軍に散々に虐殺され、また権力者に騙された民からも迫害を受けて、一万人に届くほどいたその数は、千人足らずにまで減らすことになった。
「あなた達が行った魔法使いに対する血も涙もない残虐行為! 悪逆にして無惨極まりない虐殺により、私達魔法使いはその種が滅ぶかもしれないほどの犠牲を負ったのよ!
私は今でも目に浮かぶわ! 祖先の泣き叫ぶ姿が!
聞こえるわ、死を前にした祖先の悲鳴が!」
勝った、と鏡子は思った。
この一般種の蛮行の歴史こそ、己の命を守る最強の盾であるとして、鏡子は自賛し、どうだといわんばかりに三太郎を見る。
すると三太郎の手が漸く鏡子の首から離された。
やはり勝ち、この勝負私の勝ちよ、と鏡子は心の中で高らかに笑った。
だがそれは甘い考えと言わざるんえない。
三太郎はやや考える様子をみせたのちに言った。
「その魔女狩りと今俺が殺されかけたことと、一体なんの関係があるんだ?」
「え……?」
鏡子にとって全くもって予想外の三太郎の反応。
三太郎は魔女狩りがまるで他人事であるかのような顔をしていた。
「いや、だ、だから、その、私達には、ふ、復讐の権利があるといいますか……ある程度の、その優遇は当然と言いますか……」
そうくるとは思わなかったので、鏡子はその勢いを衰えさせてたじたじになる。
「その復讐の権利とやらの行使は何年続くんだ?」
「ええっと……ずっと……かな?」
さらなる三太郎の質問に、鏡子はこてんとかわいらしく首を傾けた。
その仕草は、永遠に復讐の権利は続きますよ、という魔法使い達にとって図々しいほどに都合のいい答えを誤魔化すためのものだ。
「じゃあ、たとえば俺の一族が魔女狩りとなんの関係もなかった場合、俺はお前達魔法使いに未来永劫復讐していいんだな?」
「え?」
「じゃあ、たとえばお前達魔法使いのうちの誰かが、魔女狩りよりも前に何か悪事を行っていたなら、俺達にはお前らを未来永劫復讐してもいいわけだ」
「ちょっ、そんなわけないわ! 私達はそんなことしてない!」
言い返す鏡子に、ぬっと三太郎の顔面が近づく。
三太郎の目は再び凶悪なものに変わっていた。
「……証拠あんのか」
低く脅すような声に、鏡子は怯え「ひぃ」と鳴き声を上げた。
「……まあ、今はいい」
頭を引っ込める三太郎。
え、許してくれるのかなと鏡子は胸に期待を膨らませる。
すると三太郎は鏡子を尻目に洋服ダンスの方へ行き、セレスの攻撃によってボロボロになったパジャマを着替え始めた。
緊張にドキドキと胸を鳴らす鏡子。
三太郎が距離を取ったということは、己の命が助かったと判断できるが、まだ油断はできない。
そして、着替えながらも三太郎が口を開く。
「それで、十二の魔本はあと何冊あるんだ?」
「つ、机の上にあるのが一冊目で、あ、あと十一冊あるわ」
「じゃあ、何人の魔法使いがそれの封印に向かっているんだ?」
「えっと……」
鏡子が言い淀む。
魔法使いの情報を与えるべきか判断に迷ったためである。
魔法使いを敵と見ている三太郎。彼に仲間――とはいわないまでも、共に生徒会長の席を争う競争者の情報を話すのは、同じ魔法使いとして慮ることであった。
「おい、誤魔化しは無しにしろよ?」
「ろ、六人です、私達含めて」
ジーンズとTシャツに着替え終わった三太郎が一睨みすると、あっさりと白状した鏡子である。
「ってことは、他に四人も魔法使いがうろちょろしてんのか。そいつらは関係ない人達に危害を加える輩なのか?」
「あ、あんまり知らない、です……」
三太郎はベッドに腰かけて、チッと盛大に舌打ちをする。
なに憚ることなく不機嫌さを表に出され、鏡子は体を震わせた。
「魔本はなんとかしなきゃマズイよな」
「は、はい」
「この銀髪女の死体はなんとかできるのか」
「あ、はい。もし見逃してくれるのなら持って帰ります」
「他の魔本は」
「えっと、セレス……そこの女の死体を持って帰った後に……」
チッともう一度舌打ちをした三太郎。
いたたまれない。鏡子は泣き出したい心境であった。
「わかった。なら、死体を一旦このままにして、先に魔本だ」
その言葉に、鏡子の蒼白としていた顔に血色が戻った。
表情には出さないが、鏡子の内心は暗澹としたものが吹き飛び、眩しいほどに光を放っている。
鏡子にとって、三太郎の『先に魔本を』という提案はまさしく逃げるためのチャンスであったからだ。
ここを去ったら、もう二度と戻ってくるつもりはない。
セレスの死体についてもどうでもよかった。
すると三太郎はベッドから立ち上がり、首がぶらぶらとしているセレスの死体を持ち上げて、布団の中に隠す。
さらにセレスの剣をベッドの下に隠し、机の上にあった魔本を鏡子へと放った。
それを危なげない様子で受け止めた鏡子は、コートのポケットへと魔本を入れながら立ち上がった。
既に恐怖による金縛りは解けていたのである。
※コートのポケット……魔法のポケット。空間を屈折させ、許容量を大きくしてある
「そ、それじゃあ、魔本の封印に行ってきますね。今日中には戻ってきますんで」
へへへと愛想笑いを浮かべ、後ろ頭をかきながら、腰低くペコペコとする鏡子。
学校では完全無欠の優等生を演じ、常に他の生徒からの羨望の的であったが、今やそんな姿は見る影もない。
そして、その足は窓へと向かっていた。
すると三太郎もその後に続く。
鏡子は「え?」と小さな驚きを口にした。
「じゃあ、さっさと終わらすぞ」
そんなことを言う三太郎。
気のせいだろうか、と鏡子は思った。
目の前の男はまるでついてくるような風である。
いやいや、そんなわけはない、見送りだろうと鏡子は予想した。
窓から外に出て、ベランダの手すりに足をかけ全力で跳ぶ鏡子。
魔力を全身にみなぎらせて限界の速度で屋根づたいに駆ける。
誰もついてこられないように。
一歩でも遠くあの男から離れられるように。
そして――。
「おい」
屋根の上を駆ける鏡子の真後ろから声がした。
「こっちであってるのか?」
「ヒイィ!」
鏡子は悲鳴を上げながらさらに速度を上げた。
――それからおよそ数分後。
鏡子は持てる限りの力で市街を疾走したが、三太郎を振り切ることはかなわなかった。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ」
路上にて両手を膝にやり、前屈みになりながら激しく呼吸をする鏡子。
一方、その隣に裸足で立つ三太郎は全くこたえた様子もなく平然としている。
「な、なんであんた、あんなに動き回って、呼吸ひとつ乱れてないのよ……」
本当に人間か、と鏡子は憎まれ口でも叩いてやりたい気分であった。
あとが怖いのでやらないが。
「そんなことより、魔本はどうした」
「……ちょっと待って。微量な魔力を探知しないといけないから」
もはや逃げられないと考えた鏡子は、覚悟を決める。
逃亡作戦から、自分がいかに善であるかを知ってもらい、三太郎に許しを乞うという方針へと変更したのだ。
そのためにも、一般種に何ら犠牲を出すことなく魔本を蒐集することが肝要。
鏡子は息を整えて精神を集中し、魔本から出る微弱な魔力を探った。
「……周囲にはないわね」
――魔力の探知。
悪魔は強大な魔力を持つが、本の中に収まっている限りは、その魔力は微弱にしか感じられず探査は難しい。
魔本の蒐集は移動と探知の繰り返しであり、周囲に魔本の魔力がなければ、また別の場所で探さなければならないのだ。
「この辺りにはないわ。移動しま――っ!?」
その時、鏡子は突然目を見開き、顔をある一方へと向けた。
「どうした」
「……悪魔が顕現したわ。封印が完全に破られたのよ」
探知範囲の外より感じる強力な魔力。
それは紛れもなく悪魔のものであった。