2 フェネオンの十二の魔本
【第二話 男の正体】
1
魔法を使えない一般人が魔法使いに戦って勝つには、近代兵器を持つことが最低条件である。
素手や刃物ではもっての他、天地がひっくり返っても勝利は難しい。
では、もし魔法使いを――それも一流といえる使い手を素手で殺せる人間がいたら、その者は一般人と呼べるのだろうか。
魔法使いの学校――私立サンバレニカ学院最強の生徒、セレス・ハシンタ・モレウスを素手で殺した男がある。
彼は確かに一般人であったが、その生まれ方が少し違う。
なんと彼は転生者であったのだ。
――時は十七年前にまで遡る。
その日、くたびれたスーツを着たあるサラリーマンの男が、夜遅くまで会社にて残業に勤しんでいた。
すると――。
「は?」
男は呆けた声を口にした。
先程まで会社にいたはずが、気づけば辺り一面真っ白い景色に変わっていたからである。
(パソコンも机も、何もないな)
一人たたずみながら男は辺りを見回してみる。
しかし地平線の存在すら怪しい、何処までも続いていそうな真っ白な空間が広がるばかりであった。
これではどうしようもない。
男はドカリと座り、頭を掻いた。
考えることは、まだやり残した仕事の事である。
(明日のミーティングの資料がまだできてないってのに……。
――って、こんな摩訶不思議な事態にもかかわらず、俺はよく落ち着いていられるな)
男は『驚きの限界を越えると人間は逆に冷静になる』というのは本当だったか、などと考えつつ、ふぅと溜め息を吐き――そしてギョッとした。
目の前の何もなかった“はず”の空間に、いつの間にか巨大な石像が存在していたからだ。
大きさは四メートル、いや五メートルはあろうかというほど。
その姿形は老人のものであり、神々しい光を放ちながら此方を見下ろしている。
男はゴクリと息を呑んだ。
『お前は死んだ』
威厳に満ちた声が白い世界に響いた。
男の折り敷いていた足はその威風に当てられて、自然、綺麗に畳まれ正座の姿勢となる。
『転生させてやろう』
これで現状を把握できないほど男は馬鹿ではない。
目の前の石像は神ともいうべき御方なのだろう。
そして、己は死んだのだと男は理解した。
夢ではないか? などという考えは何故か頭に浮かばなかった。
『望みはあるか』
簡潔な言葉ではあったが、それに含まれた意味を全て理解できた。
神の言葉というものはこういうものか、と男は敬服する。
(望みか……)
男は考える。
思えば親に言われるがまま、社会に流されるがままの人生を男は送っていた。
言われるがままに勉強し、それなりの学校へ進学、それなりの企業に就職し、そしてその短い一生を終えた。
とても退屈な人生であったな、と男は思う。
(そういえば、死因はなんだったのだろうか)
そんな疑問が頭に浮かぶと、神の声が今度は男の頭にだけ響いた。
『過労死』
過労死か、と男は神の言葉を噛み締めるように反芻する。
本当に退屈な人生だったな、と男は改めて思った。
ならば次の人生は普通とは違う、物語の主人公のような人生を歩んでみたい。
これは契機である。
何故、己にこんな機会が与えられたのかはわからない。
語られないということは、どうでもいいことなのであろう。
(――望もう)
かつて憧れた力、本や映画の中にしかない特別な強さを。
そして物語のように活躍できる世界へ。
『よかろう』
言葉は必要なかった。
『だが忘れるな。
世界とは浮けば沈み、沈めば浮かぶ。
心せよ』
神の声が響く中、男はまばゆい光に包まれて転生した。
2
産まれて一年と経たずに言葉を操り、二歳に差し掛かろうという頃には文字を完全に理解し、どんな難しい本であろうとも読んだという天才児がいた。
その名は守野三太郎。
転生した男の今世での姿である。
名前でもわかる様に、彼は前世と同じ日本で生まれ、時代もまた前世と同じであった。
その天才ぶりはすぐに話題となり、テレビでも多々紹介され日本中を沸かせることになる。
またその容姿は、三歳にして多くの異性の幼児を虜にしていた。
『眉目秀麗にして良知良能』
とは、近所の知ったかぶりの爺の評である。
三太郎は有頂天だった。
生まれ落ちた世界がファンタジー世界でなかったことに肩を落としながらも、前世と同じ日本でかつての知識を遺憾無く発揮していた。
『身体は子供、頭脳は大人』なんていう、どこかで聞いたことがある名台詞が似合うお子様。
周囲の大人達はやれ天才だと褒めあげ、囃し立てた。
その度に三太郎は気分が良くなった。
三太郎は有頂天だった。
大人達は三太郎を見て「将来、必ず美男子なる」と口を揃えて言った。
幼稚園の幼女達から告白された数は両手両足の指の数では足りないほどである。
鏡を見ても「五歳にしてこのカッコよさは何なんだろうか」と自惚れてしまうほどに、やはりその容姿は美しかった。
三太郎は有頂天だった。
神より授かった力を使えば、その身が小学一年生であろうとも、高学年の生徒に運動で負けなかったからだ。
いずれはこの力を活かせる世界に召喚されちゃったり、秘匿された魔法組織が登場なんかしちゃったりするかもしれないが、取り敢えず今を精一杯楽しもうと思った。
三太郎は有頂天だった。
小学四年生で少年野球チームに入り、エースで四番。
三太郎のお陰で弱小であったチームは、どんな相手にも負けない最強のチームになった。
その中でも三太郎は、打率十割を誇り、打った球は全てホームランという驚くべき才能を発揮していた。
ピッチングに関しても、キャッチャーが構えたところに寸分の狂いなく、小学生とは思えない速度の球を投げ込み、相手チームの打者をバッタバッタと打ち取っていった。
神様の力様々である。
――そして三太郎は全てが空しくなった。
三太郎が所属する野球チームは、リトルリーグ野球選手権の予選大会で前年度優勝チームに勝利した。
相手チームのピッチャーは泣いていた。
相手チームのキャッチャーも泣いていた。
相手チームの選手皆が泣いていた。
三太郎は自分という存在の裏にある真実を知ってしまったのだ。
(俺が神の力という“ズル”をしたせいで彼らは泣いているんだ)
胸が詰まる思いで、己の“ズル”の結果を見ていた三太郎であった。
そして、一度自身の過失を知ってしまえば、それは棘となって心の奥深くに突き刺さり、三太郎の胸には悶々としたものが渦巻いていく。
試合の帰路、父が運転する車の中で三太郎は考えた。
同じチームの、本来エースになるはずだった人は、そのポジションを三太郎に“ズル”をされて奪われた。
その時、彼はいったいどんな心境だっただろうか。
すると三太郎は胸を締め付けられる思いになった。
母が作ってくれた夕食を食べながら三太郎は考えた。
小学一年生に“ズル”をされて徒競走で負けた小学六年生。
その時、負けた彼はいったいどんな気持ちだっただろうか。
すると三太郎は胸が張り裂けそうな思いになった。
父と風呂に入りながら三太郎は考えた。
己を好きだと言ってくれた女の子――そして、その女の子を好きな男の子。
その時、その男の子はいったいどう思っただろうか。
しかし三太郎は、容姿は別にズルでも何でもないと思っていたので、そんなに胸に痛みを感じなかった。
……それでも、少しだけ三太郎は胸に痛みを感じた。
ちなみにではあるが、容姿は神様への望みに際して、三太郎が思い浮かべた主人公像が影響している。
つまりは、三太郎のせいなのである。
『世界とは浮けば沈み、沈めば浮かぶ』
ふと、夜眠る布団の中で神様の言葉が思い浮かんだ。
(俺が幸福になれば、誰かが不幸になる――そういうことなのか?
では、俺が望んだ物語の主人公の様に活躍する世界はどこにある? 物語のような世界なら俺は誰も不幸にせずに活躍できるのか?)
物語では世界がまず不幸に陥り、それを主人公にが助けるというのが一般的である。
(世界はマイナス的な要因に包まれており、それを俺というプラス的な要因によって、0の世界――安定した世界に戻す。
これこそが物語の世界。俺が望む世界のあるべき姿ということか!)
三太郎は布団をはね除け、立ち上がった。
「神よッ! 俺が望んだ世界へッ! 俺が活躍できる世界へ早く連れていってくれッ!!」
三太郎は叫んだ。
二階の自分の部屋のベッドの上から天に向かって、三太郎は声を大にして叫んだ。
「静かにしなさいッ! 何時だと思ってるのッ!!」
返ってきたのは、一階からの母の小言だけである。
次の日から三太郎は野球をやめ、知識をひけらかすのをやめ、眉を剃って顔を美から遠ざけるように努めた。
(今は雌伏の時。いずれ世界が俺の力を必要とするその時まで耐え忍ぶ時)
三太郎は何よりも、自分のせいで誰かが不幸になるのは嫌だったのだ。
両親は子の余りの変わりように大いに心配したが、三太郎が以前の様に戻ることはなかった。
『一で神童、六で才子、十過ぎればただの人』
とは、近所の知ったかぶりの爺の評である。
やがて三太郎が中学に進学する頃には、神童の存在は世間から忘れられていた。
――そして、過ぎゆく七年の月日。
守野三太郎は十七歳になっていたが、今もまだ何事もなく日本で暮らしている。
結局のところ、これまで特別な力を発揮する場が訪れることはなく、三太郎は『物語の主人公の様に活躍したい』という望み既に諦めてしまっていた。
なにせ前世を含めると四十も半ばを過ぎたところ。
当初持っていたギラギラとした野心ともいうべき感情はとっくの昔になくなっており、三太郎は悟りの境地に至っていたのだ。
前世では過労死してしまったが、今世では体調を回復できるため、過労死の心配だってない。
今は日々を健やかに生きていければいいと思っていた。
力を使う場がなくとも、誰よりも強いという事実だけで、十二分に自尊心も満たされている。
胸にあるのは、今までがそうであったように、これからも何事もなく日々は過ぎていく、という枯れた老人のような考え。
要するに三太郎は長い時間をかけて順応し、現状に満足していったのである。
もし三太郎がその気になれば、このなんて事のない平和な世界でも、神の力という特別なものを使って大いに活躍できただろう。
だがそんな“ズル”をして誰かを蹴落とし活躍しても、後に残るのは“あの時”に感じた空しさといった、後味の悪さだけ。
人を押し退けることを拒否した三太郎は、少し勉強をすれば誰でも入れるような高校に入学。
のんびりと当たり障りの無い生活を送っていたのであった。
――そして、高校三年の春のある日。
かつて待ち望んでいた、されど今は全く待ち望んでいなかった事件が三太郎の目の前で起こった。
学校帰りに落ちていた本を興味本位に拾ったことから、三太郎の世界は大きく変わり始める。