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1 フェネオンの十二の魔本

【第一話 始まりの日】


 1


 夜空にはゆったりと雲が流れ、その切れ間から時折月が見え隠れしている。

 時刻は午後十一時、まだ少し肌寒い四月のある日のこと。

 S県S市のひっそりと静まりかえった住宅街に一陣の黒い風があった。

 それは、黒く美しい長髪をなびかせながら家々の屋根をまるで平地のごとく駆ける少女。

 少女は姿こそ人のものであったが、その動きはおよそ人の運動能力を凌駕しているといっていいだろう。

 いうなれば、人であって人ならざる者。

 おかしな言い回しであるが、それはどうしようもなく正しい。

 何故ならば、彼女は魔法使いと呼ばれる一般の者とは隔絶した種であったからだ。

 学生服の上から真っ黒いコートを羽織り、十七という若い年齢でありながらもどこか大人びた印象を受けるその少女――名前を麻宮鏡子アサミヤ キョウコといった。


「あそこね……あら?」


 闇に紛れて夜空を舞う鏡子は、目的の場所である箱形の住宅を視界に捉え、さらにそこの屋上にいた先着の者を認めて僅かに片眉を上げる。

 そして幾らもしないうちに、フワリと重力を感じさせない動きでその者と同じ屋根の上に静止した。


「ふふっ」


 先にいた者の挑発めいた笑み。

 肩までしかない銀色の髪、エメラルドのような蒼い眼と透き通るような白い肌。

 鏡子と同じ学生服の上に黒いマントを羽織り、腰には西洋剣が差し込まれている。

 彼女の名はセレス・ハシンタ・モレウス。

 鏡子同様魔法使いである。


「あらあら、遅かったわね。のんびりジャパニーズティーでも啜っていたのかしら」


 出会い頭に鏡子へと嫌みをぶつけてくるセレス。

 別にセレスは特別鏡子が嫌いというわけではない。

 誰に対しても見下し嘲る態度をとるのがセレスという人間であった。

 しかし、鏡子も負けてはいない。


「そうね。

 お茶菓子をつつきながら寛いでいたけれど、何も始まってないようで安心したわ。

 もう少し、ゆっくりしてきても問題なかったみたいね」


 セレスの嫌みを、涼しい顔で投げ返す鏡子。

 皮肉を皮肉で返されて、セレスはつまらなそうに「フン」と鼻を鳴らした。


「それで、後からやって来た貴女はどうするつもり?」

「まずはモレウス家の天才と謳われたそのお手並み、拝見させていただくわ」


 二人の目的の物はこの下の部屋にあり、あくまで先に来たセレスに譲ると言う鏡子。

 二人は屋根の上からある一室のベランダへと、その身を羽毛のようにして音無く降り立った。

 目の前にある窓にはカーテンが閉まっており、中は豆電球の茶色い光が灯っている。

 二階であるためか窓に鍵は掛かっていない。

 セレスは臆することなくガラリと窓を開けて中に侵入し、鏡子もそれに続く。

 部屋にいたのは年若い男が一人。

 寝ようとしていたのか寝ていたのかは定かではないが、男はベッドの中にその身を預けており、開いた窓の音で何事かと、顔を鏡子達へ向けたところである。


「な、なんだアンタらはっ!」


 男が突然の闖入者に身を起こして狼狽する。

 しかし、セレスと鏡子の二人は男に一瞥をくれただけ。

 まるで男の存在など気にも留めないよう振る舞った。


「これね」


 セレスが部屋の端に設置されていた勉強机の前で立ち止まる。

 机の上には一冊の古ぼけた本が無造作に置かれていた。

 表紙に書かれているのは、いにしえの魔法文字。


『ザッハーク』


 蛇の王の名が刻まれているその本は、悪魔が封じ込められた魔本である。

 そして、その魔本こそが彼女達が現在この場にいる理由であった。


 2


 時間を少し巻き戻そう。


 S県S市にある私立サンバレニカ学院は、広大な敷地とおよそ二千人の生徒が通うマンモス校。

 しかしてその実態は世に秘匿されし魔法学校である。

 生徒二千人の内訳は、千五百人の一般学生と五百人もの魔法使い。

 一般学生と魔法使いとは、表向きには普通科と特進科に分けられて校舎も別となっており、一般学生は魔法の存在を知らず、そんな彼らを魔法使い達は一般社会への隠れ蓑として利用しているのである。

 そして、ある日の夜、その特進科の校舎において一部の生徒達が学校長室へと集められた。


「さて、ようこそ集まってくれました」


 学校長席より柔和な微笑みを携えて口を開いたのは、初老の女性――クラテンシュタイン学校長。

 彼女の前には紫色のブレザー(一般学生の制服とも魔法使いの制服とも違う制服)を着た六人の生徒達が整列している。


「もうわかっているでしょうが、ここにいる者は魔法に長けた者。学生順位一位から六位までの者を集めました」


 学校長の言に幾人かの生徒が己の優秀さを誇るように頬をゆるませた。

 学生順位とは魔法の実技の成果のみでつけられる番付である。

 順位は学年を無視してつけられ、加えて魔法使いは実力主義の世界であるから、順位が高ければたとえ上級生であっても逆らえないなんていう実情もあり、その順位の高さは彼ら魔法使いの生徒達にとって誇りといっても過言ではなかった。

 また、上位十名の者には紫色の特別な制服を与えるなど、学校側が学生順位上位の者に対して明らかな差別を図っていたことも、学生らの順位に対する執着を助長させていた。


「さて、そんな優秀なあなた達ならば、《フェネオンの十二の魔本》を知らない者はいないと思います」


 学校長の話が本題へと入る。

 《フェネオンの十二の魔本》とは、いにしえの魔法使いフェネオンが作り出した十二冊の悪魔の書である。

 二百四十九ページからなる封印と、神話を元に創造された悪魔の宿る一ページ、計二百五十ページからなる魔本――それが十二冊。

 そのあまりの危険性により学校の地下に封じられていたものだ。


「いいですか、よく聞きなさい」


 すると先程までの穏やかな学校長の顔が嘘のように真剣なものとなる。


「――つい先程、何者かの手により《フェネオンの十二の魔本》が街にばらまかれました」


 学校長の口より放たれた衝撃の言葉。

 これを聞いた六人の生徒の反応は様々である。

 驚きに声を上げた者や眼を見開いた者。

 戦いの予感に胸躍らせて、笑みを浮かべた者。

 ピクリとも反応しなかった者。


「もうお分かりでしょう。あなた方に命じるのは《フェネオンの十二の魔本》の蒐集です。

 ちょうど前生徒会長が卒業し、現在、生徒会長の席は空席。

 此度の事変の解決、その貢献の度合いを参考に生徒会長を任命します」


 生徒達の目に爛々とした色が浮かんだ。

 生徒会長という任は若年の魔法使いにとって最も栄誉あるものといっていい。

 これまでに生徒会長の任にあった者は、いずれも魔法社会において大成を果たしており、いわば一流魔法使いになるための登竜門。

 その肩書きだけでも将来の栄達は約束されているのだ。

 生徒達が奮然となるのも当然のことといえた。

 そして学校長はそんな生徒らの顔を見てニコリと笑う。


「よい顔です。

 それでは、本日準備ができ次第直ちに行動に移りなさい。

 合言葉は――」


『魔法を秘匿せよ!』


 六人の生徒達は魔法使いにとって何よりも大事なことを唱和し、こうして話は冒頭へと戻る。


 3


 机上の魔本を前にセレスは剣を抜く。

 すると、ベッドの上にいた男からは「ヒィッ」という怯える声が聞こえた。

 しかし、既に部屋の中には音を遮断する術がかけられており、男がたとえ泣き叫ぼうとも、外に声が漏れることはない。

 セレスは剣の先端を魔本へと当てた。

 セレスの風体とは似合わぬ武骨な両刃剣。

 銘こそないが、使う者の魔力を増幅させるという、セレスの家――モレウス家に伝わる二つとない逸品である。


「スゥーー、フゥーー」


 大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出していくセレス。

 中空にある魔素は、セレスの体内の魔力によって燃焼されて魔法に変じ、それは両刃剣へと伝って凄まじい光を放った。

 ※魔素……空気中に存在する魔法の素。魔法を車にたとえるならば、魔素はガソリン

 ※魔力……魔法使いの体内に存在する器官。物質的なものではなく精神的なものであり、肉体ではなく魂に帰属するものであるため、通常目には見えない。たとえるなら、ガソリン(魔素)を使って車(魔法)を動かすエンジン的な役割をなす


 セレスの剣より溢れた光はまるで太陽のような輝きとなり、部屋中を真っ白に照らしだす。

 そんな中、部屋にいた男はその目映さにも目を閉じることなく、呆けたように光を見つめていた。


「さすがね……」


 そしてもう一人の魔法使いである鏡子はセレスの力に唸っていた。

 詠唱も陣も使用せず、己の魔力のみで本の封印を強化していくセレス。

 それでいてセレスは鏡子への警戒を怠っておらず、その背には一分の隙もなかった。

 これが生徒会長の席を争う魔本の争奪戦だということを、セレスはよくわかっているのだ。

 学生順位一位、セレス・ハシンタ・モレウス。

 その成績に違わぬ実力であった。

 やがて幾時も経たぬうちに、セレスの手によって魔本には強固な封印がなされ、部屋は元の薄暗さを取り戻す。


「さすが、モレウス家が生んだ怪物。弱冠十七の齢にして、歴代最高の才といわれるだけのことはあるわね」

「あら、褒めても何もでないわよ?」


 鏡子の嘘偽りのない賛辞に、それを当然のことであるとして余裕の態度を返すセレス。

 セレスは笑みを深めて言う。


「――でもそうね、今なら見逃してあげるわよ? 私には勝てないってわかっているんでしょう?

 さあ、負け犬のように尻尾を巻いて逃げ出しなさいな」

「ジョークにしては笑えないわね。実戦であなたのおままごとが通用すると思ったら大間違いよ」


 まさに売り言葉に買い言葉。

 部屋の空気が一瞬にして張りつめて、二人は臨戦態勢となった。


「その意気や良し、といったところかしら。でもその前に……」


 セレスの双眸が部屋の主である男に向けられる。

 すると男は「ヒィィッ」と情けない悲鳴を漏らした。


「さて、私達が何者か大体予想はつくと思うけれど、どうかしら?」


 愉快そうに口角を吊り上げて、セレスは男に尋ねる。


「な、ななななんなんだ、アンタ達は! は、早く出ていってくれ!」

「あら、言葉が通じないの? どうやらとんでもないお馬鹿さんのようね。いいわ、教えてあげる。

 ――私達は魔法使いよ」


 自分達が魔法使いであるというセレスの告白。

 しかし、魔法なんてものは一般常識からは逸脱したものであり、『魔法使いです』と告白されても、一般人にしてみればすぐに理解の及ぶものではない。

 そんなことよりも男にとって問題とすべきことは、見知らぬ女が二人、部屋へと侵入してきたことであり、そのうちの一人が武器を手にしているということであった。


「ま、魔法使い……? だ、だったら何だってんだ……! も、目的はあの変な本か? ならさっさと持って、で、出ていってくれ!」

「それがそうはいかないのよ。魔法は秘匿されしもの。

 貴方も魔法が本当にあるなんて知らなかったでしょ?

 それは私達魔法使いの存在が秘密にされているから」

「だ、だったらなんなんだ!」

「はぁ。本当に馬鹿ね、貴方。私、馬鹿って嫌いなの。

 日本語で馬鹿って馬と鹿って書くでしょ? 要するに言葉の通じない畜生ってことよね」


 大仰にため息をつき、男の無能さに落胆したように言うセレス。


「まあ、いいわ。単刀直入に教えてあげる。

 ――魔法の秘匿のために貴方を殺します」

「……え?」


 セレスの口から男へと放たれたのは死の宣告であった。

 平和な日本において、殺し殺されなんていう話はとんと縁遠いことである。

 だからだろうか、男はどこか他人事のように、逃げることもせず聞き返す。


「う、嘘だろ……?」


 するとガタンと椅子が倒れる音がした。四本足の椅子がどうやって倒れるのか。

 セレスの目にも止まらぬ剣技が椅子を真っ二つに割ったのだ。

 そしてセレスは剣を男に向けて冷酷に告げた。


「嘘じゃないわ。残念、貴方の人生はここでおしまいです」

「ひっ! そ、そんなっ!」


 男は漸く状況を把握し、後ずさる。

 だが、壁際に設置されているベッドの上で、後ろに逃げるスペースなどありはしない。

 ならばと男は鏡子に助けを懇願した。


「そ、そこのアンタ! み、見てないで助けてくれ!」


 西洋人にしか見えないセレスと違い、鏡子の姿は日本人。

 西洋人の価値観はどうかは知らないが、日本人の価値観ならばこの状況で助けないわけがないと男は考えたのだ。


「……」


 しかし、鏡子から返ってきたのは沈黙であった。


「なんで黙ってるんだ! 助けてくれ! 知り合いなんだろ!」


 男は必死に訴えるが鏡子は素知らぬ顔。

 すると、そんな男へセレスが言った。


「彼女も魔法使いなんだから、貴方を助けるわけないじゃない。

 ……でもそうね、貴方の態度次第では許してあげても構わないわよ?」

「ほ、本当か!? いえ、本当ですかっ!」


 セレスは救いの手を差し伸べ、これに男は飛びついた。


「ええ、でも少し頭が高いんじゃないかしら」

「あ、はいっ、すみません!」


 男は這いつくばるようにベッドを降りて床に頭を擦りつける。

 命が助かるならば、恥も外聞もない。

 そんな考えがありありと見てとれた。


「じゃあ、私の靴を舐めて綺麗にしてくださる?」


 その言葉にも男は嫌な顔一つしない。

 男は、床を這ってセレスの足下まで行き、靴をペロペロと舐め始める。

 セレスはそれをニヤニヤと可笑しそうに笑っていた。


「ほら靴の裏も」


 セレスが足を上げて男の顔面を踏んづける。


「す、すいませんっ!」


 男は謝罪を口にして、顔を上げると、躊躇なく土で汚れた靴裏へと舌を伸ばす。

 薄暗い豆電球の明かりの下、セレスのスカートから白いショーツが覗くが、そんなもの気にする余裕もなく、男は丹念にセレスの靴裏を舐め続けた。

 この時、鏡子はというと『ちっ、さっさと殺しなさいよ、悪趣味ね』と眉をひそめるばかりである。


 4


 ピチャピチャという唾液の音が部屋に響く。

 男の“靴洗い”は既に右足を終えて左足へと移っていた。

 それを眼下に捉え、恍惚とする女性――セレス・ハシンタ・モレウス。

 多くの逸材を輩出し、魔法界において多大な権力と名声を誇るモレウス家。

 その血筋にある者は皆優秀であり、そんな一族の中にあっても一際輝くことができる存在、それがセレスという女である。

 そして彼女は、他人を卑下することで快感を得る異常性欲者であった。


 セレスが幼少の頃のこと。

 その巨大な魔力の片鱗を見せていたセレスを両親は特別に扱うようにした。

 数の多い一般種に対抗するには質。魔法使いにとって才能とは正義であるからして。

 ※一般種……魔法を使えない種の呼び名


 さて、この幼少の時分にセレスの性格は確立されたといっていい。

 セレスには兄姉が六人もいたが、両親は他の子に見向きもせずにセレスを褒め称えた。

 兄姉は一番上の者でも十四歳。皆若く多感な時期であり、当然両親の愛を一身に受けるセレスのことを快く思う者はいなかった。


 セレスが五歳の頃のことである。

 十二歳になるセレスの兄が、親の目を盗んでセレスに食って掛かった。

 彼もまた才能豊かな者であり、それゆえに過信があった。

 自分はセレスにも負けていないという考えが、七歳も年下の子供に暴力を振るうという蛮行を決意させたのである。

 そして勝負は一瞬で決まった。

 五歳の少女に、十二歳の少年は四肢を折られ、惨めに土を舐めさせられたのだ。

 この時、セレスは自分が何故特別扱いを受けているかを漸く知った。

 眼下には芋虫のように地面に転がり、痛みに泣き喚く兄。

 セレスが蹴りつける度に、その芋虫は心地よいメロディを奏でる。

 ぞくぞくとした。

 先程まで自信に溢れていた兄の目が、今では怯えしかない。

 セレスは兄に命令する。

 土下座しろ、と。

 兄は折れた両手両足で痛みに耐えながら頭を地に擦り付けた。


「すみませんでした」「図に乗ってました」「命だけは助けてください」「どうかどうか……」


 泣きながら必死に命乞いをする兄。

 セレスの全身に電撃のような快感が走った。

 弱者を踏みにじる、それは相手よりも自身が特別な存在であるからこそ。

 セレスは、自分が有象無象とは違う選ばれた人間であると認識したのだ。

 その後、セレスはすぐに他の兄姉を服従させ、名実共にモレウス家の中で特別な存在となった。


『世界とは己のために存在し、己は神に選ばれた特別な存在』


 それを実感することはとてつもなく甘美な蜜であり、五歳にしてセレスは狂おしいほどに絶頂を迎えたのである。


 やがてセレスは一般のエレメンタリースクールに入学、六年の課程をもって卒業し、魔法学校であるジュニアハイスクールへと進学する。

 ※エレメンタリースクール……日本でいう小学校。魔法社会において魔法学校はジュニアハイスクール(中学校)からが通例となっているため、魔法を教えるエレメンタリースクールは存在しない


 『魔法を秘匿せよ』という絶対的な掟から、セレスは一般のエレメンタリースクールでは目立つことができなかったが、魔法学校であるジュニアハイスクールでは違う。

 彼女はその能力を遺憾なく発揮し成績は常にトップ、誰からも羨望や妬みといった感情が向けられた。

 家中で一番だったセレスは、学校という大きな社会でも一番であり、やはり自分が特別であることを再認識したのだ。

 ならば次にやることは暴力で他人を足蹴にすることである。

 学校内では自ら喧嘩を売るという低俗な真似こそしなかったが、他のすべてを下に見ている性格が災い――いや、幸いして、這いつくばらせる相手には事欠かなかった。

 最上級生ですらセレスの前ではひれ伏したのである。

 セレスは学校で最も強いといわれていた者を踏みつけた時、再び絶頂した。

 しかし、卒業する頃には逆らう者もいなくなりマンネリ化。

 それ故にハイスクールは自身の悪名が及んでいない日本の魔法学校を選ぶことになる。


 日本には、四堂明、エルネスティーネ・ローランス・ノワ、麻宮鏡子、といった自身には敵わぬまでも才ある者がいた。

 この三人を屈服させたらどれ程気持ちがいいか、とセレスは心を高鳴らせた。

 ただし四堂明以外はどれだけ挑発しても決して向かってくることはなかったが。

 唯一挑んできた四堂明については徹底的に叩きのめしたが、それでも頭を垂れようとはしなかった。

 両手両足をへし折って屈服しない相手など初めてである。

 セレスの退屈は消し飛んでいた。

 そこへきてフェンネルの十二の魔本が散布されたという事件。

 それはセレスにとって、合法的にエルネスティーネや麻宮鏡子を地面に這いつくばらせる好機であった。

 これまで焦らしに焦らされてきた相手。

 彼女らを屈服させた時に得られる快感は果たしてどれ程のものか。

 それこそその瞬間を考えるだけで達してしまいそうであった。


 ――そして現在、セレスの目の前には、床に這いつくばり靴を舐める男。

 それはセレスの意思一つで如何ようにもできる奴隷、愚劣な存在。

 這いつくばる者の存在が自身を高める。自身がいかに選ばれた者であるかを証明してくれる。

 優越感が興奮を高めていく。

 男は、普段は見向きもしない一般種――虫けらだ。

 だが我慢しよう。これは麻宮鏡子を這いつくばらせる本番前の前戯。

 より究極的な快感へと至るまでの準備なのだから。


 5


「もういいわ、ありがとう」


 セレスの、ありがとうという感謝の言葉に男は安堵の表情を浮かべた。

 しかし、次の言葉が男を絶望へと叩き落とす。


「せっかく靴裏まで舐めてくれたのに、貴方の唾液で余計に汚れてしまったわ。だから殺すわね」

「え……」


 一瞬にして色を失う男の顔。

 対して、セレスは悦に浸るような表情である。

 希望を与えてから奈落へと突き落とす。

 その落差のなんと心地のよいことか。

 今から目の前にいる人間の人生を、なんの価値もない虫けらのように踏み潰す。

 それは才ある者にのみ与えられた権利――特権である。

 頭の中では脳内麻薬が噴出し、セレスの白いショーツにはシミができているほどであった。


「バイバイ」


 そして男の首に剣が振り下ろされた。

 男の首が宙を舞い、血が噴水のように飛び出す姿が、セレスの脳裏に浮かぶ。

 されども所詮は虫けらの一生。明日のニュースでは強盗殺人だなんだと騒がれるが、その次の日には話題にも上らない。

 そんな風景が、セレスの頭の隅をよぎった。

 しかし――。


「いってえな……」


 先程までとは打って変わったドスの利いた男の声。

 セレスの口からは「え……?」という間抜けな声がこぼれた。

 そして男は立ち上がる。

 先程までの怯えた様子をまるで感じさせない堂々としたその姿。

 百六十センチの鏡子より背の高い、百七十センチほどのセレス。

 そのセレスより二十センチは高いと思われる巨大な身長。

 男に眉は無く、本来眉があった場所の下にある二つの眼がセレスを射抜くように睨み付ける。


「くっ……」


 セレスは一歩退くと同時に、男へと突きを放つ。

 魔力によって身体を極限にまで強化した刺突、それを骨という壁のない腹部へ。

 セレスの心にはもう油断や侮りといったものはない。

 その剣は、ただ敵をほふるために振るわれた全身全霊の攻撃であった。

 部屋は再び輝く剣の光に包まれる。

 絶倫の剣突が突風を巻き起こし、部屋の中を荒し窓をガタガタと揺らした。

 だが、セレスの剣が男の身体を貫くことはなかった。


「ば、馬鹿な……っ!」


 セレスの口から自然と発せられる恐怖にも似た驚愕の声。

 あらゆるものを貫きせしめるはずの剣は、男の肉体に小さな血泡すら出させることなく弾かれたのである。


「なあ、おい。俺、頭つけて靴まで舐めたよな?」


 怒りを滲ませた男の言葉。

 されどそんなものは聞きもせずにセレスは無数の剣を放つ。

 音速にも比する、目にも止まらぬ剣が幾十も男の身体を“叩いた”。

 そう、“叩いた”のだ。

 相手を斬り裂くための剣は、僅かばかりの斬り傷すら与えること無く、ただ服を裂き肉を打つばかりであった。

 そして、男の右腕がセレスの首へと伸びる。


「ぐぅっ」


 苦しそうな音がセレスの喉から聞こえた。

 さらに五十キロ足らずのセレスの身体が持ち上がる。

 男の右腕に首を掴まれて、セレスは宙吊りにされたのである。


「がっ……」


 頸動脈を押さえられ、息をすることすら困難。

 しかし、それでもセレスは剣を振るった。

 目の前の脅威から活路を見いだすために。


「なあ、おい。俺、靴の裏まで舐めたよな?」


 相も変わない様子の男へ向かって、間合いも踏み込みもないセレスの剣が振るわれるが、それが男の身体を傷つけることはない。

 ただいたずらに体内から酸素が無くなるのを早まらせるだけであった。


「魔法使いだかなんだか知らねえが、今までそうやって何人殺したんだ? あ?」


 男の声が脳内にぼんやりと響く中、とうとうセレスの振るっていた剣はカランと地に落ちる。

 セレスの目は充血し、涙がこぼれていた。

 そして男は告げる。


「――今度はお前が殺されろ」


 瞬間、ぶちゅりとセレスの首が二倍の長さになった。

 男がセレスの首にある肉・骨・喉を握り潰したのだ。

 ぶらんとあり得ない方向に垂れ下がる首に、どさりと倒れる身体。

 そこにはセレスであったものが転がるばかりである。

 そして男の瞳は、もう一人の魔法使いである鏡子へと向いた。


「え……あ……」


 鏡子は腰を抜かし、トスンとその場に尻餅をついた。

 セレスが殺されるまでの間、彼女はただ目の前で起きていることが理解できず呆然としていた。

 圧倒的な強者。

 学生順位一位のセレスすら子供扱い。いや、子供より酷い。

 セレスと目の前の男とは蟻と象であった。

 セレスが蟻ならば、鏡子もまた蟻である。

 所詮は蟻という種の中で競ってきた存在。

 つまるところ鏡子は大海を知らぬ井の中の蛙であったのだ。

 男がそこにいるだけで鏡子は蛇に睨まれたように動けなくなり、股の間からはチョロチョロと黄色いレモンティーが漏れ出していた。


「お前も同じ魔法使いなんだよな」


 男の腕がゆっくりと鏡子へ伸びる。


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