坂東蛍子、魔法の瓶を掲げる
魔法瓶は現代に生き残っている数少ない民間魔法の一つである。十六世紀、高名な錬金術師であるパルケルススがイングランドを放浪中に手放した魔術遺産の一つで、後にニュートンの手によって掘り返されて以降も長い間西欧魔術協会にて秘匿されていた秘術であったが、十九世紀中期に起きた産業革命によって魔術世界も資本主義化が進むと、プロイセンの戦争気運の高まりに伴って幾つかの土着のドイツ民間魔法が軍需品を兼ねた生活用品として世俗に顕在化し、それら時代の潮流に背を押される形で八十年代にドイツ社会主義労働者党の末席に身を置くある魔術師の手によって日の目に晒されることとなる。
魔法瓶はアーリア系社会にありがちな、フェアリーマジックを元素配分で行う収斂型の魔法具で、基本的には筒状の魔術媒体に魔力や元素を保管しておくために用いられることが多いが、製作者の配分次第で質量保存の法則が泡を吹いて倒れるような量の元素を詰め込むことが出来てしまうため、アクティブなマジック・アイテムとしても油断は出来ない――そろそろ魔術に通じていない人間は混乱し始める頃だろうが、魔法瓶の話をしていることを念頭に置いてもらえれば何も問題はない。いいだろうか。今は魔法瓶の話をしている――。
魔法瓶の攻撃的側面が如何に危険であるかを理解してもらうために、魔術結社についても触れておこうと思う。あらゆる物事と刺激が求められる現代において、魔術結社もその例外に漏れず細分化されることになったが、現実社会に介入するような、ともすれば社会に悪影響を与えるような魔術結社は大半が家電や調理器具、生活用品を扱う企業となって社会に溶け込んだ(先述した通り、民間魔法と生活用品の親和性が高いからである)。錬金術の始祖のシンボルに倣って古代の力ある動物を社名やシンボルに冠する彼らは、対面的には資本主義経済に則り、良心に満ちた価格競争を行っているが、真の目的は個々の魔術師(以下、店員と呼ぶ)が商品に仕込んだ独創的な魔術や革新的な呪術によって実験を、もとい真理の探究を行うことにある。魔法瓶もその一つなのだ。買う時は時折紛れ込んでいる魔術師の悪戯心に細心の注意を払って、筒の中までよく確かめてから購入を検討しなければいけない。
邪悪な意思により世界を動かさんとする悪の魔術結社は、このようにして新商品を開発しながら虎視眈々と毒牙にかかる獲物を探している。そして今、まさに彼らの術中にはまろうとしている憐れな子羊が、店員のにこやかな満点笑顔の前に抗うべき衝動に屈し、心の眼を閉じようとしていた。
女子高生は「かわいい」には勝てない。これは魔道と同じぐらい深い世界の真理なのである。
「お買い上げ、有り難う御座いましたー!」
板東蛍子は家電量販店の自動ドアを出て、空模様を確かめた。豪勢な雨と雷のフルコースに、隣に並んだ剣臓が顔をしかめる。
「こりゃ帰りも傘ぶっ壊れるなぁ」
「ねぇ、なんで男の人って皆ビニール傘なの?かわいいやつ買ってあげよっか?」
「なんで可愛いやつ限定なんだよ」と剣臓が目を細くした。
「どうせピンクとかだろ。男は黒かビニールしか持てないよう脳みそ改造されてんだよ。それに本当に価値あるものしか欲しがらんのだ」
あんたはもっと色々欲しがんないと駄目でしょ、と蛍子は男のみすぼらしいシャツとネクタイを見た。
女子高生に買い物を付き合わされているこの男は、名前を剣臓と言い、公園を本拠地とする住所不定のくたびれた中年である。実際の所は米国中央情報局勤務の特務派遣員であるが、事情を知らない蛍子の中ではあくまで“飴をくれて変な妄想を口走る気の良い公園仲間”である。
「んー!やっぱりかわいい!」
板東蛍子は先程購入した魔法瓶をさっそく箱から取り出し、傘を首に挟みながら掲げ持った。それは淡いピンク色の小型の水筒で、小さな白い花が均等に並び水玉のようになっていた。蛍子はこの花柄のアクセントを大変気に入っていた。稲光で照らしながら一通り眺め終わった蛍子は、今度は蓋を開け、その状態で水筒を傘の外に晒した。どうやら雨水を貯めようとしているようである。
「おいおい、小学生じゃねぇんだからよぉ、雷落ちるからやめとけって」
剣臓がはしゃぐ女子高生を呆れ気味に窘め、煙草を口に咥えてライターを取り出した。
「こら、剣臓!歩き煙草は駄目だってば!」
今度は蛍子が窘める番だった。剣臓が懐から歩き煙草用安全装置を取り出し、なおも水筒を掲げ、民衆を導く自由の女神のような姿勢で歩いている蛍子に自身の正当性を説明する。
「この鉢は歩き煙草用に俺、いやさっきの家電屋がな、開発した安全装置でだな。煙草からわき上がる煙の成分を感知すると自動で起動して、煙や落ちる灰を逃さず鉢の中に吸い取ってくれる魔法のアイテムなんだよ」
「でも金魚鉢じゃん、それ」
蛍子は「何言ってんだこのおっさんは」という顔を見せるのをやめ、正面に向き直って腕を下ろし、六月の空模様を確認した。遠足の日はちゃんと晴れてくれるだろうか、と蛍子は思った。せっかく奮発してかわいい水筒も買ったんだし、ちゃんと明るい場所でお披露目したいな。
ちなみに剣臓の発言は開発者云々と魔法云々以外は全て事実である。彼は恋人は作れずとも人型ロボットや歩き煙草用安全装置を作れる有能な中年男性であり、魔法なんてこれっぽちも信じてはいない生粋の科学信仰者であった。
剣臓は雨天による湿気に嘆息を交えながらライターの頭をこすり、何度目かの健闘の末ようやくそれを着火させた。すると彼の前で極めて奇妙なことが起こった。ライターに灯った火が丸い球体となってフワフワと浮き上がり、そのまま前方へゆっくりと流れていったかと思うと、蛍子に握られた水筒へ向かって徐々に加速し、とうとう筒の中に勢いよく滑り込んだのだ。ジュっというしめやかな結末の音を聞いた後も、剣臓は今起きた現象が信じられず、煙草を落とさないよう必死にくわえ込みながら何度も目をこすった。
「ほ、蛍子ちゃん・・・」
「ん?」
再び雨粒の貯水を再開した蛍子が、前方に掲げた手はそのままに剣臓の方を振り返った。その時、一筋の雷光が閃き、暗雲を切り裂いて少女の頭上目掛けて落ちてきた。雷は死の予感を携えながら彼女の手の中で煌めく魔法瓶へ一直線に切り込むと、そのまま音も立てず一気に飲み込まれた。一瞬の出来事だった。剣臓は雷が落ちたことしか分からなかったが、しかし雷が落ちたことだけは確かに目撃していた。口元から煙草を零した剣臓の様子を見て、黒い煙を吐く水筒を掲げた板東蛍子が首を傾げる。
「ねぇ、なんなの?」
「・・・・・・その魔法瓶、譲ってくれねぇか」
「なんでよ、駄目に決まってるでしょう」
「頼む!金なら幾らでも出すから!」
「え、無理しないでよ・・・ていうか、そもそもピンクじゃんこれ」
「何言ってんだ!ピンク大好きだぞ俺は!」
【剣臓前回登場回】
今際の際で笑む―http://ncode.syosetu.com/n0870ce/