退魔師たちは笑わない
黄昏色に染まった都市を駆ける二つの人影があった。
渋滞した大通りを走り抜け、壁を蹴り、ビルとビルを忍者のように渡り飛ぶ。人間離れした躍動を見せる二つの人影は、同じ方角に、同じ速度で、同じタイミングで、常に並走状態を維持しつつ移動している。
風に靡く黒衣。
一人は少年。一人は少女。
両者とも十代後半――高校生ほどの外見だった。整った顔立ちにスラリとした背丈。少年はアルビノの白髪を耳が隠れる程度に、少女は艶やかな黒髪を腰の辺りまで伸ばしている。
アクロバティックな動きで疾駆する彼らだが、誰かに目撃されて騒がれることはない。
なぜなら、この都市には彼ら以外誰もいないのだから。
正確に言えば……この都市、この空間において『人間』は彼ら二人だけである。
「――釣れた。真下だ」
人のいない、車だけが渋滞している大通りでアルビノの少年が淡々と告げる。瞬間、二人の足下から紫色の噴炎が立ち昇った。両者は左右に飛んでかわし、天を衝いた炎の柱を感情のない顔で睨み上げる。
紫炎が弾け、そこに新たな影が出現する。
人間ではない。馬の頭蓋に羊の角。魔術師のようなローブを纏い、下半身は蛇。
「現れたな、魔物」
少女が声を低くし唸るように言った。
魔物。人間が住む世界の裏側に潜む人外の怪物である。奴らは時に表の世界へと渡り、人間社会のみならずあらゆる生物に対し悪影響を与える。聖書に登場する悪魔などを想像すればいいだろう。そういう物の多くはこれらを起源として描かれている。
この無人都市は裏と表の『狭間』。表側の風景のみを複写した空間であり、人間が魔物を撃退するために用意した人工の戦場である。
そして『狭間』に出没した魔物を狩る異能者――それが彼ら退魔師だ。
「注意しろ、ホタル。それなりに高位の魔物だ」
「わかっている。問題はない。ケイこそ隙を見せるとつけ込まれるぞ」
「それこそ余計な心配だ」
ケイと呼ばれたアルビノの少年――咸杜計はくだらなそうに返した。対してホタルと呼ばれた黒髪の少女――鬼灯蛍はもう彼の方には目を向けず眼前の魔物だけに集中する。
「動くぞ」
ホタルが視線をさらに鋭くさせた刹那、馬骨頭の魔物は人骨の両腕を大きく広げた。すると両掌の辺りが陽炎のようにぐにゃりと歪み、先程と同じ紫色の炎が凄まじい勢いで放射される。
それを漆黒の瞳で見据えたホタルは、右手を前に突き出し――
「――来い、〈鐵〉」
静かにそれを呼んだ。
なにもなかった空間に突如として出現したのは、刃渡り二メートル以上もある長大な刀。ホタルはそれを握ると、迫り来る二つの火炎流をそれぞれたった一振りで薙ぎ払った。
「ケイ、引き摺り下ろせ」
「ああ」
言われるまでもない、といった様子でケイは両手を空に翳す。
「――〈鋈〉」
呼んだ途端、先端に刃物が装着された白銀の片手銃が出現した。ケイは二丁の銃剣を構え、無感動な赤い瞳で敵を捕らえると、なんの躊躇いもなく引き金を引いた。
射出された銃弾は魔物に直撃すると輝きを放って弾け、白い鎖を出現させてその体を雁字搦めにした。浮遊力を失った魔物は真っ逆様に落下するが、地面に叩きつけられる寸前に紫炎を纏って鎖を焼き切った。そのまま次の攻撃に移ろうと両手に炎を灯すも――遅い。
瞬速で接近したケイが銃剣の刃で魔物の両腕を肩口から斬り落としたのだ。さらに至近距離から特殊な弾丸を撃ち放ち、発生した衝撃で魔物の体を大きく吹き飛ばす。
そしてその先では、待ち構えていたホタルが長大な刃を大上段から振るっていた。
ホタルの持つ刀――〈鐵〉は魔物に関わる物のみを断ち切る斬魔剣である。人間に対して振るっても斬ることはできないが、相手が魔物であれば絶大な威力を誇る。
ケイの二丁銃剣――〈鋈〉も同じく対魔物用の武器だ。術式が込められた魔弾は様々な力を発現させ敵を駆逐する。
最強無敵の魔物狩りコンビ。
冷徹にして容赦がない百鬼殲滅の鉄仮面。
退魔師業界でそう噂される二人を相手にしてしまった魔物は、まともに抵抗もできぬまま真っ二つとなり、その端々から溶けるように消えていった――かのように思われた。
《ルォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!》
深淵の底から響くような、あらゆる負の想念が込められているような、咆哮。
黄昏の空に轟く雄叫びは、まるで生温い風が耳から侵入して体中を駆け巡るような不快感を聞く者に与えた。
「なんだ?」
「嫌な感じがする。ケイ、気をつけろ」
身構えたケイとホタルだったが、特になにかが起こるわけでもなく、やがて魔物は完全に消滅した。この場には二人の気配だけしか残っていない。
「……」
「……」
拍子抜けだった。けれど、これまで数多の魔物を狩ってきた二人からしてみれば今の叫びは少し異常に思えた。魔物の叫びは不快なものも多いが、聞くだけで体内を弄られるような感覚は初めてである。ただの断末魔ではない。
「少し周囲を調べてみるか?」
「いや、問題がないなら構わない。魔物が消えれば『狭間』はすぐに閉じる。――戻れ、〈鐵〉」
ケイの提案には乗らず、ホタルは斬魔刀を前に翳した。退魔の武具は持ち主の意志で召喚と送還が自由に行える。たとえどこにあろうとも召喚すれば手元に現れ、送還すれば指定した場所に転移する退魔術の一つだ。しかし――
「……えっ?」
ホタルの〈鐵〉は、消えることなく握られ続けていた。
「どうした、ホタル?」
「いや、なんでもない。――戻れ、〈鐵〉」
もう一度ホタルは送還させようとしたが、やはり刀は残ったまま転移する気配を見せない。
「……どうしよう、ケイ。〈鐵〉が戻らない」
特に困っているとも思えない無表情で困ったようなことを言うホタルに、ケイは「ふむ」と唸って自分の退魔武具を見詰めた。
「――還れ、〈鋈〉」
ケイも二丁銃剣に送還の命令を出すが、結果はホタルの時と全く同じだった。
「まさか……」
それからケイは何度か腕を振るったり、適当な車に銃弾をぶつけたりしてなにかを確認していく。その作業はほんの三十秒ほどで終わり、ケイは確信を持ってホタルに告げた。
「どうやら、俺たちは退魔術が一切使えなくなったらしい」
無人の都市に吹く風が二人には異様に冷たく感じた。
☦
『そいつは一種の呪いだな』
どうにか無事に表側の世界へと帰還した二人は、ケイが借りているマンションの一室に集まっていた。ホタルも同じマンションに部屋を借りているが、退魔師の話し合いは専らケイの部屋で行われる。
「呪い、ですか?」
ケイはテーブルの上にスピーカー状態で置かれたスマートフォンを見据えて訊き返した。すると中年男性の声が軽い口調で答えてくる。
『そ、呪い。封印系のな』
「ですが、神威師匠、退魔師の力を封じる呪いなんて聞いたことがありません」
『んまあ、俺も長年魔物の相手をしてきちゃいるが、割と珍しい部類だな。警察の秘密資料にもそんなに情報は載ってないだろうね』
ホタルが師匠と呼んだ男の名は神威紫。警察で秘密裏に設立されている魔物対策課に所属する警部にして、一流の退魔師でもある。ケイとホタルは彼の下で退魔術の訓練を受けており、今でも時々こうして相談に乗ってもらっている。
『その魔物は雑魚じゃないくせにやけにあっさり倒せたんだろ? てことはだ。その呪いをお前らにかけることがそいつの目的だった可能性がある』
「俺たちに呪いをかけることが目的? だとすればまずいですね」
「どういうことだ、ケイ?」
「俺たちは魔物に狙われている。近いうちに必ず襲ってくるはずだ。わざわざこんな手の込んだをするくらいだ。俺たちは魔物側にとって看過できない存在と看做されたのかもしれない」
『そういうことだ』
ケイの推測にスマホから肯定が返る。退魔術がなければ魔物と戦うことなどできない。襲われたらいくら最強無敵の二人だろうと無事では済まないだろう。無論、退魔師としての活動もできなくなる。
「それは困るぞ!」
ホタルが珍しく声を荒げた。彼女は自ら望んで退魔師となったのだ。その道が閉ざされてしまうことを願ってなどいない。それはケイも同じである。
「解呪の方法はあるのですか?」
『ある。なぁに、この手の解呪は簡単なもんだ』
「「!」」
やけにあっさり言われ、二人は心なしか前のめりになってムラサキからの言葉を待つ。
『笑顔だ。思いっ切り笑えば呪いは解ける』
「「……は?」」
沈黙が下りた。ムラサキの言葉を二人とも理解できないでいると、スマホから少し焦ったような声が聞こえた。
『ちょ、なぜ黙るの? もしかしてお二人さん、なに言ってんだこのオヤジ馬鹿じゃねえのって顔してない?』
「「なに言ってんだこのオヤジ馬鹿じゃねえの?」」
『そっくりそのまま返された!? 息ピッタリだね君ら!?』
「冗談は顔だけにしてください、師匠」
『ケイくんそれはどういう意味かね!?』
「神威師匠は俗に言う『イケメン』とは程遠いと思われます。気持ち悪いです」
『ざっくり来るねぇ!? まあホタルちゃんの冷淡な声で言われると逆にゾクゾク……あだっ!? ちょい、君ら部下のくせに上司の頭を帳簿の角で叩くとかどういうことなの!? え? 違うよ俺ヘンタイじゃないよ!?』
なんか電話の向こうでムラサキの株が急暴落しているようだが、ケイとホタルにとってそんなことはどうでもいい。
「師匠、解呪の方法はあるのですか?」
『えー、そこから? てか今言った通りだよ。アレは冗談なんかじゃない。実力はあっても経験は若造な君らには信じられんかもしれんが、こういう呪いの解き方もある。騙されたと思って試してみな。いくら鉄仮面な君らでも笑うことくらいあるだろう?』
「……」
「……」
『え? もしかして、ないの? そういえば俺も見たことない気が……』
沈黙する二人に不安そうな声になるムラサキ。
「……大丈夫です。師匠。解決できたらまたご連絡します」
ケイはそっとテーブルのスマホを取り上げ、スピーカー状態を解除して通話を切った。スマホをポケットに仕舞ってホタルを見る。どうする? と視線だけで問うと、ホタルはなんの問題もなさそうに笑顔を作った。
「笑えばいいのだろう? 簡単じゃないか。アッハッハ」
「そうだな。師匠に言われた通り、騙されたと思って笑ってみよう。ハッハッハ」
静かなマンションの一室にわざとらしい乾いた笑い声が響く。二人は一頻り笑うと、バッと互いから距離を取ってそれぞれ手を前に翳した。
「――来い、〈鐵〉!」
「――〈鋈〉!」
しかしなにも起きなかった。壁に立てかけてある〈鐵〉も、テーブルに置かれてある〈鋈〉も無反応。ピクリとも動かない。
「ケイ、私はこれから魔物対策課に殴り込もうと思うのだが」
「早まるな、ホタル。もしかするとわざと笑っても無駄なのかもしれない」
長刀を手にして玄関へ向かおうとするホタルをケイは止めた。
「恐らく重要なのは『笑顔』そのものではなく、嬉しい、楽しい、面白い。そういった自然と表情に特有の緊張をもたらす陽性の感情だろう」
「心の底から笑わないといけないのか? 難しいぞ?」
「難しいな」
真顔で腕を組み、あまりにも高く厚い壁をどう乗り越えるか考える二人。数分間同じ姿勢で唸っていたが、ふと、ケイが時計を見てなにかを思いついた。
「そういえば、この時間なら確かお笑い番組をやっていたはずだ」
「なるほど、お笑いを見て楽しい気持ちになれば笑えるのだな」
「『笑顔』とは自分以外の対象に好印象を得ることで起こるという。試してみよう」
ケイはテレビのリモコンを手に取り、電源を入れてチャンネルを目的の番組に切り替える。すると、丁度二人組の男性芸人がステージに立って漫才を始めるところだった。
『コント、「コンビニ」』
『今日も暑いなぁ。なんかコンビニで飲み物でも買うか。ウィーン』
『あ、お客様、大変申し訳ありませんが、当店は』
『(やっべ、俺なんかマズイことやらかしちゃったかな?)』
『自動ドアではありません』
『なにが開いたの!? 俺今ウィーンってなに開けちゃったの!?』
瞬間、どっと笑いの嵐に包まれる画面内の会場。
「ハッハッハ」
「アッハッハ」
ケイとホタルもソファに座って画面を見ながら笑ってみせる。
「ところでケイ、これはなにが面白いのだ?」
「知らん」
ダメだった。
「恐らくウィーンと自動ドアを開く擬音を使ったが、そこは自働ドアではなくなにが開いたのか謎になったことに対する激しいツッコミが面白い点なのだと思われる」
「確かにそこでみんな笑っていたな」
「いや、アレは笑いを誘発するためにテレビ局が仕込んだ演出だろう」
「なんだ詐欺か」
「似たようなものだ」
全国のテレビ局に謝らないといけないような発言をしつつ、二人はクスリともしないまま番組を最後まで見終わってしまった。
「……俺たちにお笑いは高度過ぎることがわかったな」
「いや、違うぞケイ。私たちを笑わすことができない芸人のレベルが低いのだ」
「そういう見方もできるか。だがそうなると、高レベルのお笑い芸人はなかなかいないだろう」
どう分析してもお笑い番組で『笑顔』になることは不可能という判断になった。ケイがリモコンでテレビの電源を切ると、ホタルがおもむろにソファから立ち上がった。
「実はテレビを見ている間に一つ思いついたことがある。簡単に人を笑わせられる方法だ」
「ほう? それはどんな方法だ?」
「くすぐりだ!」
自信満々に言うホタルだったが、ケイは残念なものを見るように溜息をついた。
「ホタル、くすぐられて笑うのは生理現象だ。楽しい気持ちになったりはしない。どちらかと言えば嫌なものに対する現実逃避の笑いだ」
「なっ……いや待てケイ、身近な人間同士がくすぐり合って楽しそうにしているのを学校で見たことあるぞ。そういうじゃれ合いはきっと楽しいのだ。私はケイにくすぐられても嫌じゃない。だから――」
ホタルは両腕を広げて目を閉じた。
「ケイ! 私をくすぐれ!」
ホタルの無防備な肢体がケイの前に晒される。スラリとした身長に、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んだ抜群のプロポーション。グラビアモデルとして雑誌に載っていても違和感はないだろう。そんなホタルを見て、ケイは頭を抱えた。
「なぜ俺が……」
「自分でくすぐってもダメなのだ。他人にされないとくすぐったくならない。あっ、服の上からだと効果が薄いかも。ならば脱ぐか」
「やめろ」
洋服を持ち上げてヘソが見えたところでケイは全力でホタルを止めた。
「お前には羞恥心もないのか?」
「ここにはケイしかいないだろ。なにを恥ずかしがる必要があるというのだ?」
「……もういい。とにかく、くすぐりはなしだ」
「むぅ……いい案だと思ったのに」
ちゅくんとホタルは唇を尖らせた。そういう不愉快な表情は僅かでもできるらしい。
それからもいろいろな『笑い』を試してみる二人だったが、結局笑うことはできなかった。
☦
笑えないまま、その時はやってきた。
翌日の夕方――逢魔が時。昼と夜の境目にして、魔物が最も表側に出て来易い時間帯。
都市に張り巡らされた術式が魔物の出現を検知し、自動的に『狭間』が生成される。そのプロセスが完了すると、次はその地区に登録された退魔師の召喚プログラムが作動する。検知と同時に退魔師には連絡が飛んでいるので、約三十秒の猶予を持って彼らは召喚に応じられる。
たとえ退魔師の力を失っていても関係ない。『狭間』の出入りは全て自動であり強制なのだ。
「ホタル、力の方はどうだ?」
「ダメだ。学校のクラスメイトにも相談したけど無駄だった」
「こちらもいろいろと調べてみたが、収穫はなかった」
黄昏色の都市。その路地裏に潜むようにしてケイとホタルは話し合う。退魔師の防護服である黒衣も召喚できず、二人とも高校の制服姿だった。
「どうする、ケイ? 一応武器を携帯していた方がよかったのではないか?」
「俺の銃剣もホタルの刀も隠しようがない。昨日はどうにか隠れつつ帰宅できたが、昼間からあんな物騒な物を持って出歩けば確実に騒ぎになる」
警察に職質されてもムラサキが手を回してくれるだろうが、無用なトラブルを起こしたくはない。かといってマンションの部屋に引き籠っていても『笑顔』になれないことは昨晩で立証済みだ。よって二人は普段通りに学校へ行き、それぞれで笑う方法を探っていた。
「できればこうなる前に取りに戻りたかったが…………ッ!? 来るぞホタ」
ケイは言葉を最後まで紡げなかった。
いきなり背後の壁が爆発したのだ。二人は弓反りになって吹き飛び、悲鳴も上げることなく何メートルも転がった。
「ぐ……ホタル、無事か?」
退魔術を封印されては勘も鈍るらしい。どうにか身を起こしたケイはホタルの姿を探し、散乱した瓦礫の中でぐったりと倒れている彼女を発見する。
「ホタル!」
すぐに駆け寄って抱き起す。死んではいないが気絶しているようだ。ケイも無傷ではなかったが、彼女は打ちどころが悪かったのかいくら揺り動かしても目覚める気配がない。
気配があるのは、魔物だけだ。それも――
「……なるほど、そう来たか」
数は一匹や二匹ではなかった。破壊されたビルの周囲にシルエットからして人間から程遠い異形たちがわらわらと群がっている。
ケイはホタルを抱えて走った。時間を稼げば事情を知っているムラサキ辺りが援軍としてやって来る。情けないが、退魔術が使えない以上は逃げに徹するしか道はない。
当然魔物は追ってくる。人間の臭いに敏感な奴らから逃げ切れるとは思えない。だが、無謀に立ち向かうよりは遥かにマシだ。
走る。走る。走る。
幸いなことに、鍛え上げた身体能力だけは退魔術を抜きにしてもある程度人並み以上だった。もちろん魔物と戦えるほどではないが、逃げるだけならできないこともない。
空には飛行型の魔物が旋回している。できるだけ屋根の下を駆け抜け、開けた場所は避けて魔物に囲まれないよう狭い道を選んで移動する。さっきのように壁が爆発することもあったが、同じ手は二度とくらわない。挟み撃ちにされることもあったが、狭い道に入れる魔物なら飛び越えられる。
しかし、人一人抱えての逃走劇は限界が早かった。
行き止まり。全ての道がどこかに繋がっていることはない。魔物の追手にはまだ見つかっていないが、引き返せばあっという間だろう。
ケイは肩で息をしつつ、気を失ったホタルを抱えたまま行き止まりの端に座り込んだ。
援軍はまだ来ない。
実際どれくらいの時間が経ったのか、ケイにはわからなかった。体感的には何時間も経っているように思える。
「……ケ……イ……」
と、ホタルがゆっくり瞼を開いた。彼女は何度か瞬きをし、十秒ほどかけて状況を理解する。
「年貢の納め時、というやつか」
「ホタルにしては諦めがいいな」
「ケイも、ここは否定するところだぞ」
魔物の気配。近い。それもかなりの大物が二人の方へと向かっている。それを感じたのか、ホタルは上体を起こし、ケイに寄り添うようにして呟いた。
「私は退魔師になったのだ。いつか果てる覚悟はしていた」
「そうだな。まさかこんな形になるとは夢にも思わなかったが」
建物の陰から黒肌の巨漢がぬっと姿を現した。禿頭から生えた太い角に鋭い牙。まさに鬼といった容姿の魔物は、その赤黒く光る一つ目を彷徨わせ、やがてケイとホタルを認識する。
それは確かな『死』を臭わせるには充分なほど強大な存在だった。
「なんだろう、死ぬことは不思議と恐くない。ケイと一緒だからかな?」
「まだ意識が朦朧としているせいだろう。俺は恐い」
「そうか」
「そうだ」
一つ目の魔物がのしのしと、しかし決して遅くない速度で近づいてくる。するとホタルがすっと立ち上がり、ケイを庇うように前に出た。
「ケイ、私はお前とコンビを組めてよかったと思っている。最後に二人で笑おうといろいろやったことも、今思い返せば楽しかった」
彼女は振り向かずに言う。まるで別れの挨拶のように紡がれたその言葉は、吟味するまでもなくケイに正確な意図を伝えていた。
「ああ、俺も同じだ」言いつつ、ケイも立ち上がる。「だからお前の今考えていることもだいたいわかる。――一人では死なせないからな」
「……お見通しか。流石はケイだな」
自分が魔物を引きつけている間にケイを逃がす。そんな作戦をケイが素直に聞くはずがなかった。ホタルもそこはわかっているので、説得することはケイの顔を見た瞬間にやめた。
共に戦う。それがコンビだ。
「ケイ、一矢報いるぞ」
「ああ」
逃げ場はない。あっても逃げない。魔物は二人の前で一度立ち止まると、赤い一つ目を爛々と輝かせて咆哮した。
身構えるケイとホタル。
変化が起きたのはその時だった。
「――えっ?」
「まさか……」
外見上の変化はない。だが彼らの内側では、唐突に、なにがきっかけなのか謎なまま、堰を切ったかのようにいつもの感覚が溢れ返った。
退魔師としての、力だ。
魔物が大型トラックも一撃で粉砕しそうな巨椀を振り被り――振り下ろした。だがそこに二人の姿はなく、空振った拳は地面を爆散させて抉り取るだけだった。
「――来い、〈鐵〉!」
「――〈鋈〉!」
爆音が轟く中、召喚の声は空中から。
いつの間にか退魔師の黒衣を羽織った二人の手には、えげつない長さの刀と二丁の銃剣が確かに握られていた。
そこから先は一瞬だった。
銃弾の雨が魔物の肉体を紙切れのように貫き、振るわれた凶刃がその巨体を袈裟斬りに両断。あれだけ屈強に見えた魔物は夢か幻だったかのように呆気なく霧散した。
まるで一連の動作を反射で行ったとでも言うように、二人はようやくハッとして自らが握っている武器を見詰めた。
「力を使えた? 私たちは笑顔になれたのか?」
「いや、少なくともホタルは笑ったようには見えなかったが……」
困惑する二人だったが、先程の派手な爆音で他の魔物たちが集まり始めていることに気づく。
「まあ、理屈がなんであれ今はどうでもいい。これで存分に暴れられる」
「そうだな。検証は後だ」
ケイとホタルはわらわらと集う魔物たちを見据え、それぞれの武器を構えて相対する。
「「さあ、狩りの時間だ!!」」
声を重ねた時、二人は互いに気づいていなかった。
その口元に微かな笑みが浮かんでいたことを。
それはとても楽しそうで、愉しそうな、見る者まで釣られて笑ってしまいそうな――
――凶悪な笑顔だった。
☦
『病は気からってあるよね。本当はあの手の〝魔物が死んで発揮する呪い〟ってのは制限時間があるもんなんだ。早くて数時間。長けりゃ一週間以上もある。んで、鬱になってりゃその期間は延びるってもんよ。だから俺は君らに笑顔になれと言ったわけだ』
「……」
「……」
激闘を終えて『狭間』から帰還した二人は、先日のようにケイの部屋で師であるムラサキから事の真相を告げられていた。
要するに、別に『笑顔』にならなくてもよかったのだ。
放っておけば勝手に解決される問題だったのだ。
『てか君ら、あの魔物の大軍団をたった二人で殲滅したとかどんだけ? 百や二百じゃなかったんだろ? 実力だけならもう俺以上だな。最強無敵は伊達じゃないってか』
「……」
「……」
魔物の数なんて些細な問題だ。今はとにかく、ムラサキにまんまと騙されたことに対する静かな怒りが二人の内で沸々と煮えていた。
『なんにせよ生きててよかったよ。まあ、それもお師匠様のアドバイスのおかげってやつだな。遠視術で様子を見てたけど、普段の君らから考えられない面白い行動の連発でぷぷぅ! おっといけね、俺は仕事に戻るわ』
通話が一方的に切られる。ツーツーと虚しい音を繰り返すスマホを眺めつつ、ホタルは恐ろしいくらいの無表情で先日と同じ台詞をポツリと呟く。
「ケイ、私はこれから魔物対策課に殴り込もうと思うのだが」
「奇遇だな。俺も同じことを考えていた」
今回ばかりは、ケイも止めなかった。
その後、神威紫警部の大逃走劇が繰り広げられたりするのだが、それはまた別の話。