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窓から見える月の角度が随分と傾いたことに気づく。
「もうこんな時間か。長居をしてしまい、済まなかった」
音もたてずに立ち上がると、その優雅な仕草に皆ははっとした。トッソは羨望を込めた眼差しでキーエンスを見つめ、追うように立ち上がる。
「送るよ。ラティー様の所は遠い」
え、とその名を聞いて皆複雑な顔をする。どうやらダラティエの性別の事や出奔していた事など、皆知っているようだった。
「ダラティエ様の依頼で、姫の護衛をすることになっているんだ。また来るとイオに伝えてくれ」
エスコートでもするかのようにキーエンスの手を取るトッソを苦笑して見上げる。
「私の腕は知っているだろうに」
「まあね。君の美しさに惹かれて襲いかかろうとする奴は、一瞬で両足の筋を切り裂かれてしまうだろう。…もう少し話がしたいだけだよ」
キーエンスは苦笑して、トッソと共に建物を後にした。
トッソはゆっくりと歩をすすめ、腕にかけた華奢な手と指を絡めて握りたい衝動を押さえる。
「しばらくルナリアにいるんだろう?」
願いを込めて言うと、ぼんやりと月とそびえる王城を見上げていたキーエンスは頷いた。
「ああ、姫の見合いが終わるまでいることになりそうだ。そのあとはカダールに少し居ようと思う」
「まだ傭兵を続けるつもりなのかい?そのまま侍女として留まればいいのに」
「王宮は苦手なんだ」
キーエンスは笑い、軽く受け流す。けれどトッソはそれを許さず、歩を止めてキーエンスを見つめた。
たった2年の歳月は、あどけなさを消す代わりに匂い立つような美しさを与えた。月光に照らされた肌は白くなめらかで、結い上げられた髪からわずかに落ちる後れ毛が首筋を飾っていた。
「恋人でもできれば、留まってくれるのかな」
言わんとしている事に気づかない振りをせずに、キーエンスは首をわずかにかしげ、トッソを見上げる。
「作る気はないよ、トッソ」
諦めてくれ。
トッソは軽く息を付き、再び歩き出した。
君にその気がなくても、放っておくことなんてできないよ。
見知らぬ誰かに攫われてしまうくらいなら、自分でできるだけの事はしよう。
「時々会いに行くことを許してくれ。それくらいならいいだろう?」
薄青の瞳は困ったように細められる。けれど諦めたように薔薇色の唇が笑みを作った。
「見習いに降格するなよ?」
「昇進したら、また交際を申し込むよ」
そう言い、笑い返すと、白磁のような頬がわずかに染まったことに気づいた。
腕に絡めた華奢な手を引き寄せたい衝動が、再び高まった。
「キーエンス!」
背後から鎧の擦れる音と足音が近づいてきた。振り向いたキーエンスを抱き寄せた大柄な青年の背で、無造作に束ねられた深紅の髪が揺れる。
「帰ってくるなら知らせてくれよな」
「依頼人がルナリアだと言わなかったんだよ。久しぶりだな、イオ」
記憶より分厚くなった胸板から顔を上げ、筋肉質な背を叩く。鎖帷子を通しても、鍛え抜かれた身体を感じた。
よい騎士に成長したな。
キーエンスの笑顔を見下ろしたイオは、急に身体を離すとキーエンスの肩に手を置いた。
「うっわぁ、なんか、随分女らしくなったなぁ。…剣振るうのに、その胸邪魔じゃない?」
ひゅ、と風を切る音と共に、イオの頬に短剣の腹が当てられた。
「久しぶりに会った友人に言う言葉か、それは」
「久しぶりに会った親友にすることじゃないよね、これ」
よく研がれた輝く短剣を見下ろし、イオは笑う。
「まったく。相変わらずだな、君は」
「そうかい?随分腕を上げたつもりなんだけどなぁ。バンキム様みたいな大剣を使うのが夢なんだよ」
むき、と鍛え上げた二の腕の筋肉を披露する。
「父上…お元気だと、手紙を読んだよ。知らせてくれてありがとう。この仕事が終わればしばらくカダールに居ようと思っているんだ」
「なんだ、王宮に入る前に挨拶してくればよかったのに。レコルダーレ様もお喜びになっただろうし」
「依頼人のダラティエ様が、王族しか知らぬ通路を通って入国したのだ。迷った所でトッソに会った時は驚いたよ」
なにやら複雑な表情をしているトッソにようやく顔を向け、イオは笑う。
「そうだったのか」
短剣を仕舞ったキーエンスは、イオの腕を軽く叩く。
「会えてよかったよイオ。君に聞きたいことがあったんだ。…元恋人のことで」
笑みを消したイオは、トッソに目配せする。トッソは仕方なく頷いた。
「ではまた、キーエンス。必ず会いにいくから」
キーエンスは困ったように笑って応えた。




