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「大丈夫ですか、フリント」
「うるせー、お前はさっさと休んでろ」
熱さと揺れにすっかり体力を奪われたフリントは、輿の中でうずくまっていた。這い出る気力もないようだ。
「ほら、水飲め」
アグリルが水袋を差し出すと、受け取って口に含む。
心配気に輿を覗いていたキーエンスにも、横から水袋が差し出された。
陽に灼かれぬよう手袋をはめた大きな手より水袋を受け取り、わずかに口に含む。
眼布に包まれた視線が咎めるように強まったのを感じ、キーエンスはフードの奥より気まずげに見上げる。
「もう少し飲みなさい。無くなれば補充する方法はあるのだから」
「でも」
イズニークは言い募ろうとするキーエンスを見下ろし続ける。眼布に包
まれているというのに、彼の発する視線は痛いほどだ。
渋々水袋を傾け水を飲むと、ようやくイズニークはいつもの柔らかな笑みを浮かべる。
「いい子だ」
いつの頃からか、熱を帯びた視線をイズニークから感じるようになり、複雑な気分でキーエンスは目を伏せた。
------どうにも、落ち着かない。
その仕草はこれまで見たこともないほど色めいていて、イズニークは慌てて身を離す。ヤマの代理とも言えるアグリルがいるというのに、おかしな気分になりそうだった。
水袋を仕舞うためにと荷へ向かい、やはりアグリルの冴えた視線に出会う。
------手ぇ出すなよ。
わかっている、と応えるように苦笑を返し、時間をかけて荷を整理した。
ふわり、とからかうように風が頬を撫でる。
「…そうだよ」
風達の問いに小さく答えると、楽しげにフードを煽り、風は結われた銀髪を靡かせる。
「そのうちに。どうか悪戯はしないで欲しいと、伝えてくれ」
つむじ風が去るのを見送る。
「なんだ、風の精霊かよ」
うろん気にアグリルが見下ろしてくる。上から見下ろされる事などそうないので、少しばかり新鮮だ。
「ああ。からかわれたよ」
「ふん」
どうせ色ぼけし過ぎだと言われたんだろうよ。呆れたようにアグリルは肩をすくめ、フリントに飲ませていた水袋を仕舞う。
「…挨拶はないのか、と」
イズニークの呟きに、アグリルは息を呑む。
「まさか」
驚く呟きに、イズニークはわずかに肩を竦めて応える。
げー、と低く唸り、誤魔化すように駱駝の方へと行く長身の楽師を見送る。
「精霊王かよ」
武王の収める国に仕える者でも知っている。イズニークが特別精霊に好かれているのだと。
------仕方がない。
座る駱駝に背を預け、影に入り座る。
「彼の事だ…挨拶もせずに砂漠を抜ければ、後々面倒な事になる」
背より弦楽器を降ろし、膝に乗せる。
せめて音色だけでも、届けておかねば。
流れ始めた曲に、キーエンスは顔を上げた。
「…不思議な曲…」
あらゆる楽曲によりアニアから指導を受けたキーエンスは、聞いたことのない音色に驚く。精緻で技巧に優れたその曲は、とてもただ人には引けぬ技量がなくば、弾けぬ楽曲だった。
だがそれよりも心を打つのは、その美しさ。
ふわりと涼やかな風が吹く。精霊達が喜んでいるのだ。
誘われるようにキーエンスはくるりと身を翻す。旅装束のままだったが、しなやかに伸びる手足は見事に弧を描き、絹の装束を纏っていなくと
も、目を奪われるほどの美しい舞。
始まったか、とアグリルは苦笑し、気分の悪さも忘れたフリントは身を乗り出した。
休憩毎に楽師は楽を奏で、それに合わせて舞姫が舞う。休憩にならぬから止めろと言っても、楽師は聞かぬし舞姫も意味がわからないと首をかしげる。
彼らにとって奏で、舞うことは息をするのと同じ事。
「綺麗だな」
足下の悪さを感じさせぬ動きで飛び跳ねる舞姫を、ずれたフードからうっとりと見る。そんな顔はこれまで見たこともなく、アグリルは驚いた。
「おまえがそんな事を言うとはな」
その類い希な容姿のために奴隷となり、あらゆる陵辱に身も心も荒みき
った少年が、王宮に侍る美しい女達を見ても嫌悪すらせぬほどに忌み避けていたというのに。
着飾りもせず砂漠の旅で埃にまみれた女の踊りに心を奪われるとは。
「あいつはいいんだよ」
舞姫と似た色の瞳を細め、呟く。
「…たぶん、欲があんまねえから。だから気持ち悪くならねえ」
二人の視線に応えるように、舞姫が風を纏うように落ちたフードより零れる金の髪を払い、こちらへと戻ってきた。踊ったせいか、それとも強い陽のせいか赤らんだ頬に汗が流れる。




