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少年のように髪を短くして戻ったキーエンスに、バンキムは何も言わず、朝食を手渡した。
「関所が開き次第、川を渡る。昼過ぎには、ルナリアに入れるだろう」
「ルナリア…、父上の住んでらした国ですね」
バンキムは頷き、パンをかじる。
「キィにはその剣がある。ルナリアでゆっくり、ナナイではない生き方を探せ」
「はい」
関所越えは、すんなりと済み、バンキムの言った通り昼過ぎに対岸へ渡ることができた。 城からの伝達が追いつかぬほどすばやく、バンキムがキーエンスを連れ出してくれたお陰だった。バンキムはその後、けして急ぐことはなく、道沿いの街で宿を取りながら王都を目指した。
「今夜はおごりだ!いっぱい飲んでおくれよ!」
数日後、夕食を取っていた宿の酒場で、おかみが突然大声を張り上げた。旅人や酒を飲みに来ていた街の住人達は歓声を上げる。
「ありがてえ!」
「こっちに葡萄酒をくれ!」
「俺もだ!」
「どうしたんだ!?店を潰す気かい」
心配した住人がおかみに言う。
おかみは大声で笑い飛ばし、心配げななじみの住人の背を叩く。
「城の御姫さんが求婚されたんだってさ!めでたいじゃないか!」
「それはめでてえ!」
「シールム国の王子かい?ありゃー目が悪いそうじゃないか」
「王太子妃様もシールムのご出身だしなぁ」
「いいや、金持ちなキダータの王子様らしいよ!」
いっそう高らかに歓声があがる。
バンキムは表情を変えず、そっと立ち上がり、キーエンスを促した。
部屋へ戻るぞ。
「なんでもヤマ王の求婚を嫌がった妹姫が自害なさったらしい。ヤマ王の不興を買っちまったんで、ヤマ国と同じくらい大きい国、ルナリアの御姫さんを貰いたがってるんだとさ!情けないネェー」
がははは、と笑いがあがる。
青ざめたキーエンスを引っ張るようにして、バンキムは部屋へ連れて行った。
「噂をうのみにするなよ。姫は流産が原因でお亡くなりになったことは、
わかっているだろう?」
「…はい」
だが、アルカイオスがルナリアの姫へ求婚したことについては、触れなかった。
「戻るか?姫の死を公にしたならば、お前を悪用することもできまい」
キーエンスは、即答することができなかった。
戻る?姫のいないキダータに?
戻り、ドリーシュ家の娘として城の夜会に出るか?そしてアルカイオスにどういうことかつめよるか?
悲しげにキーエンスは首を振った。
もう、どうしようもない。そんなことをして、なんになる。
「いいえ。ナナイではない生き方を、探します。剣を持つ事以外に、なにができるか、わかりませんが」
「剣だけでも充分だろうが。---中庭に明かりが灯っている。軽く手合わせするか?」
「…お願いします」
深夜まで続く酒場の喧噪の中、ただひたすら剣を打ち合わせた。最後には、あまりに疲れてキーエンスは倒れてしまった。
翌日、体の節々の痛みに耐えながら、バンキムに連れられてルナリア王領へと入った。
「みろキィ。ルナリア名物の占街だ」
城下町は頑健な石造りの家が多い。けれど、キダータに比べて町並みが低めにできている。バンキムの指す界隈は特に低く、見たことのない文字が飾りのように板に書かれて貼られていた。観光客らしき人々が軒先から布のかかった店内をのぞき見している。
「ルナリアは占者を多く排出する国だ。それでも何かしらの訓練を積まなければモノにはならない。せいぜい勘がいいと言われるくらいだ。占学校なんてのもある」
そこに行くのもおもしろいかもな、とバンキムはおもしろがる口調でキーエンスに言う。
どうやらバンキムが浮かれているということに、キーエンスは気づいた。
「それなら剣術を学べる学校へ行った方がいいです」
キーエンスが言うと、バンキムは無表情を崩し、かすかに笑う。
「そうか」
そう一言いい、王城へと向かう道を進んだ。
キダータを出てから、父上の笑顔をよく見る気がする。
---そうじゃない。
父と過ごす時間が増えたから、気づけるだけだ。
ふわり、と短くなった髪をなびかせ、初めて見るキダータ以外の国を見回す。
これまでは城と屋敷が私の世界だった。
けれど、これからは違う。
「着いたぞ。あれだ」
バンキムの示した先には、巨大な石壁とその向こうにそびえるいくつもの建物のある場所だった。多くの人々が、その門へと向かってる。
「あれは?なにか人が集まっていますね」
「もともとはカダール家の屋敷だった。今は武術の訓練所になっているはずだ」




