21
「どうしましょう、もう時間がありませんわ」
すでに客達は入場している時間だった。騒ぎに気づいた係員達が慌てて駆けつけ、あまりの惨状に呆然としている。
「替えの衣装を取りに戻りましょうか」
「間に合うかしら」
オロオロと話し合う女達に笑いかけ、キーエンスは髪を軽く手で梳く。
「せっかくですが、いりませんよ。あなた達はそろそろ席に行かないと。お祖父様が心配しているだろうから、私の無事を知らせてほしいな」
衣装の裾を絞り、滴る水を振り払う。
「なんてことだ!」
「楽器が…」
戻ってきた楽師達からも悲鳴があがる。
「済まない、それは私の責任だ。火を消すのに、魔術師を使ったのだ」
ラルキーズが歩み出ると、さすがに楽師達もそれ以上文句を言うことはなかった。
「間もなく審査が始まります!受験者は入場を開始してください!一番手、常花の舞姫が弟子、キーエンス=カダール!」
控え室の奥より、呼び声がかかる。
天樹の間への入り口は、控え室の奥にあるのだ。
女達が窺うようにキーエンスを見た。
「お祖父様のお世話をする方達には、いつも美しい笑顔でいて欲しいものですね。心配しないで、大丈夫だから」
にこりと笑い、優雅に身を翻し、水浸しの控え室へと入っていく。
「キーエンス!」
ぱしゃん、と水を跳ね上げ、歩み寄る男がいた。
急に背後から抱き上げられ、キーエンスは驚く。
「------濡れてしまいますよ」
「君こそ、足が濡れたままでは、転んでしまう。せめて拭いていくんだよ」
冷えてきた華奢な身体を抱え上げ、イズニークは奥へと連れて行く。
きな臭い匂いの漂う天樹の間では、異常を察した客達がざわざわと落ち尽きなく言葉を交わしていた。
呼ばれたはずの受験者はなかなか出てこない事も、それを増長させていた。
出口間近で、ようやく床が濡れていない場所を見つけ、イズニークは跪き、キーエンスを抱きかかえるようにしてその足を丁寧に拭いた。
「じ…自分でできます」
「ん?くすぐりに弱いのかな?」
からかうと、キーエンスは見透かしたように微笑んだ。
「ありがとうございます、イズニーク様。…私は大丈夫ですよ?」
「ああ、知っているよ。君の髪は金糸のようだし、瞳は宝玉のよう。わざわざ化粧をして隠すことはない…白磁の肌を持っているのだから」
その瞳が、じっと見つめていることに気が付いた。つねに持ち歩いている、楽器も。
「お願いしたいことがあるのです」
紡がれた少女の言葉に、イズニークの胸が、どん、と高鳴った。耳の奥で脈打つ鼓動が、うるさい。
アニュスの声を、聞きたいのに。
「…なんだい?」
必死で平静を装いながら、わずかに掠れる声で問う。
「私のために、弾いてくださいませんか」
その時ばかりは、キーエンスの声に緊張が感じられた。
------胸に、炎が灯ったよう。
その言葉を待っていた。
「喜んで。私の舞姫」
これまでに感じた事のない熱い想いが心にくすぶる。彼女のために、彼女のための曲を奏でる。
その喜びに胸が震える。
「ありがとうございます」
ほっとした気配を追って、イズニークは楽器を手に、天樹の間へと歩み出た。
――――――そう、私はずっと、アニュスに弾いて欲しいと言われたかった。
それだけを、望んでいたのだと、イズニークは笑みを深めた。
貴族の娘という噂から想像していた者とは、あまりにかけ離れた質素な姿に、民衆や審査員は驚きを隠せなかった。連れるのはただひとりの楽師。
だがいぶかしむどよめきに晒されながらも、颯爽と歩み出た少女は、流れるような優雅な仕草で礼をしてみせる。
あまりに涼やかな表情、そして堂々とした様子に、落ち尽きなく囁きを交わしていた者達は、口を閉じ視線を送る。
集まる視線をものともせず、そしてそれらをたぐり寄せるかのように、しなやかな指先が空を掻いた。
審査員達はそれだけで息をのむ。すべての衆目を引き寄せ、さらに漂う精霊をも巻き込んで、少女は舞いだした。
少女が動くたび、精霊はうねり、祝福を与えたがる。けれど少女はそれすら追いつけない程の早さで、天樹の間をいっぱいに使い舞い続ける。
稀なる曲が、ただひとりの楽師より奏でられ、喜びに震える精霊たちが勢いを増す。
ひらり、と赤い花びらが少女の頭上に舞う。それは次第に増え、深紅の花冠となり、少女の髪を飾った。
見覚えのある出来事に、審査員達は目配せしあう。
------これは常花の舞姫の精霊に似ている。
「常花の舞姫はあの弟子を溺愛している。まさか、精霊を貸し与えたのか」
「だが、我らが気づくことなど、わかるだろう?そのように見え透いたこと、するだろうか」
「たしかに。-----見ろ!何かが現れるぞ」




