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「お食事中だったのですね」
「一人のメシは飽きた。つきあえ」
椅子を引いて、キーエンスを座らせる。バンキムが詳しく出自を語らないが、その洗練された仕草から、高位であることは察せられる。
「いつも…ばたばたと帰って来ては、慌ただしく城へ行くことばかりですね」
バンキムは葡萄酒の入った銀杯を傾けながら、わずかに笑む。
妻や息子は、城へ帰る、と言葉を使う。家はここであるのに。
「食事を最後に摂ったのはいつだ?精気がない」
銀杯を置き、鋭くキーエンスの顔色を見る。
「覚えていません…。剣を持つ者として失格ですね」
「ああ。食える時に腹に入れろ」
いつの間に指示したのか、キーエンスの分の食事が運ばれてきた。
食欲がなかったが、バンキムの言う通り、食べられる時に入れておくべきだと思い、口へと押し込む。
しばらくそんな娘を眺めていたバンキムは、ため息をついた。
「やれやれ。その首のアザをつけたのは、どこのどいつだ?」
がしゃん、と思わず食器を鳴らして、キーエンスは赤面する。ちらりと給仕の者達をみるが、屋敷の侍従達はすべてバンキムのしつけがゆきとどいている。口は堅い。
「…王子です。恋人になるようにと、請われました」
バンキムは応えず、葡萄酒を口に運ぶ。
えもいえぬ気配が漂う。バンキムの闘気かもしれない。
給仕の者は葡萄酒がカラであることに気づいていたが、ここは動かぬほうが良いと判断し、石像のようにただ立つことに専念した。
「---それ以上は許すな」
キーエンスは知らず首を押さえ、頷いた。
「あ…でも」
ふと思い出し、言いかけると、バンキムが銀杯を倒した。
「許したのか!?」
殺気を溢れさせながら、怒りを露わにバンキムが怒鳴る。
「い・いえ違います。私ではなく…」
普段冷静なバンキムの怒りを生まれて初めて見たので、動揺しながら応える。
「兄上です。…その…ある女性と、婚約するかもしれません」
話してもいいものか、と逡巡するが、ゆくゆくはこの家に嫁ぐことになるのだから、と決心する。
「ご懐妊なさったのです。…残念ながら、流れておしまいになったそうですが」
ふ、とバンキムは息を吐く。剣の指南を受ける時にする、呼吸に似ていた。
気を静めようとしているのだろう。
「キィがそんな話し方をする相手と言えば…エレンテレケイア姫か」
「…はい」
ふ、と再び息を吐き、バンキムはしばらく無言で倒れた銀杯を見下ろしていた。
「礼を言うぞ、キィ。知らぬままで過ごすところだった」
キーエンスを見つめ、穏やかに笑う。
それでも、奥に渦巻く闘気を感じた。
悲しげに、キーエンスはバンキムを見返す。
「---父上も…兄上を殺したいほどお怒りになるのですか」
バンキムは笑ったまま、銀杯を直す。軽く指を動かし、給仕に葡萄酒をつがせた。
「シリウスが怒り狂うのは目に見えるようだな。…俺は男だ。好きな女が目の前にいたら、押し倒したくなる気持ちはわかる」
ふん、とおもしろくなさそうにキーエンスの首筋を一瞥し、鼻をならして銀杯を煽る。
「だがなキィ、姫はそこらの娘と違う。姫の婚姻には政治的な思惑が絡むものだ。身体の弱い姫のことだ、遠くに嫁ぐことはなくとも、各国に轟く美貌の姫だ。あらゆるウマイ条件をぶら下げて娶りたがる王族は多いだろう。
横からそれをかっさらったとあっては、大臣達もいい顔をしないだろう。それに、仮にキィがそんな事になってみろ?俺なら大剣を振り回すな」
そして相手の男をみじんに切り刻むだろう。
はっと息をのみ、キーエンスは食事の手を止める。
「ヤマ国の王が…姫に求婚をなさいました。永続公約を掲げたそうです」
険しい顔で、バンキムは銀杯を置く。
「武術の国ヤマか…。王はどうするつもりかな」
いや、こたえはわかりきっている。
そんなおいしい縁談を無視する訳がない。
ふと、バンキムはキーエンスの豪奢なドレスを見た。まさしく王家の姫にふさわしいその姿。
「最近の公式行事は、キィが姫として出席していたんだろう?では、ヤマの王が見初めたのは…」
キーエンスは俯き、頷く。
「私…でしょうか…やはり」
バンキムは声をあげて笑う。
「国の世継ぎと王を魅了した姿を目に焼き付けておこう」
笑いながら、バンキムはキーエンスを見つめ、そしてゆっくりと瞼を閉じた。
「父上?」
キーエンスの問いには答えず、バンキムは立ち上がった。
「城へゆく。支度を」
侍従に言い、つられて立ち上がるキーエンスに座るよう手で制す。
「キィは食事をして、休め」
そう言い残し、バンキムは出ていった。