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デイライの地は遠く、ルナリアから馬を飛ばしても5日はかかる岩山の奥にあった。とはいえ、普段はデイライ産の細工や織物を求めて商人が行き来する。だが年に一度だけ、ルナリアの王宮付きの天文学者が赤い月について報せを出した時のみ、道は王宮の騎士団によって封鎖され、民間人の行き来は完全に禁じられる。
けれどそこを、仰々しい馬車が数台と、それを囲む騎士団の一軍が進んでいた。
ひときわ目を引く馬車には、大きなリボンで出入り口が飾られ、馬もまた珍しい白馬を使っている。馬の背には下向きの蘭の花の刺繍が施された布がしかれ、銀糸の刺繍が陽に照らされて燦然と輝いている。
「今年の戦いの姫は自ら志願なされたとか」
「ルノー家の二女だろう?上の姫が妖艶と名高い方だった」
「病で亡くなられた時、大勢の求婚者が泣いたらしい」
「ではこの方がルノー家を継ぐのか」
「さて、成人はしておらぬが弟君がいられる」
「ではこの度の遠征で、婿殿を選ばれるおつもりかな」
「どうせ守り役から選ばれるのだろう、いつものように」
従騎士達のうわさ話に飽きたヤマは、傍らの飾り気のない馬車へと馬を寄せる。
「キース、茶」
それほど大きな声でないが、聞き取った侍女は涼やかな声で返事を返す。
やがて出入り口の帆が上げられ、美しい金の髪を結い上げた娘が現れる。一国の王に仕えるのだからと特別にあつらえた服を着させたが、相変
わらず化粧も薄く、飾りも付けていない。きっと服も用意しなければ、簡素な宮女用の服を着ていたのだろう。
揺れる馬車に臆することもなく身を乗り出し、手にしていた木の筒を受け取りやすいように投げて寄越す。
「日差しが少し強うございます。ヤマ様、なにか被る物をお使いになりますか?」
薄青の形のよい目を細め、わずかに首を傾げて問う姿に、従騎士達の注目が集まっていることに気づいたヤマは、不機嫌に鼻を鳴らす。
「このくらいどうということはない。そなたこそ、馬車より顔を出す時には扇でも使え」
馬車の中で冷やされていた木筒に入った茶を飲み干し、キーエンスへ投げて返す。
「貴族の淑女じゃあるまいし、しませんよそんなこと」
あっさりとそう言われ、ヤマはむすりと押し黙る。
「…わかりました。薄布を被ります」
「わかればよいのだ」
うむ、と頷くヤマに、馬車の中から低く笑う声が届く。
「君も馬車に乗ったらどうだい、ヤマ。どうせすぐに侍女殿を呼ぶのだろう?」
「…煩い」
馬車の中からの笑い声から逃げるように、ヤマは馬車より離れる。
「これで少しは大人しくなるかな」
イズニークは苦笑して、手の中の楽器を持ち直した。
「イズニーク様もお茶をお飲みになりませんか?」
ちりり、と小さな鈴の音が耳を打ち、イズニークは笑う。ほとんど物音を立てずに動く侍女だが、この鈴のおかげで居場所がわかる。シールムの王族にしか扱えぬ鈴は、限られた者しかその音を聞くことができない。
「うん、いただくよ」
ちりちりと音が動き、イズニークの手に軽く木筒が当たる。そっと握ると鈴の音が離れた。
仕える侍女によっては、必要以上にイズニークの体に触れる者もいる。そのせいか、あまり傍に仕えさせる者を寄せないようにしている。
ばさり、ごそごそ、と音が聞こえる。どうやらヤマに言われた通り布を被ろうと探しているらしい。素直な子だと、イズニークは笑う。
「いちいちヤマの我が儘に付き合っていては、身が持たないよ」
銀糸の刺繍の施された布で目を覆ったイズニークを振り返り、キーエンスは苦笑を返す。見えてはいないとわかっていても、見つめられているような気がする。
「実は日差しに弱い肌なんです。日に焼けずに赤く腫れることもあるので、大人しくヤマ様の言いつけに従う方が身のためなのですよ」
つい面倒くさくて口答えしてしまいました、と言うと、イズニークはおかしげに笑う。
「嫌な時ははっきりと言うのだよ。ヤマがつけあがるからね」
はい、と素直な返事にイズニークは笑いを刻んだまま、機嫌良く竪琴をつまびく。あれこれと話しかけることもなく、のんびりと楽器をいじりた
い時には放っておいてくれるこの侍女を、イズニークは結構気に入ってい
た。
多分父上ゆずりの勘なのだろう、とキーエンスは感じていた。口数の少ないイズニークが、静かに楽器をつま弾きたい時や、喉が渇いた時、微睡みたいときなどがなんとなくわかるのだ。
今は静かに楽器をいじりたいのだと感じたので、キーエンスは話しかけることなく布探しに没頭し、ついでに狭い馬車の中をより快適に過ごせるよう荷の整理もし始めた。




