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城の奥、最も堅固な守りに囲まれた辺り、明け方だというのに多くの人影があり、明かりが灯っていた。
寝室からそっと抜け出した王妃は、壁つたいに手を置きながら、ゆっくりと歩き出した。
「メリッサ様、また寝室を抜け出されて!」
大きな陶器の壺を抱えた侍女が、足早に階下へ向かおうとして王妃メリッサに気づいた。
「胸が張るのよ、どうしても。どうせ眠れないのだから、生まれたばかりのあの子を見てもいいでしょう?」
「私が戻るまでですよ」
仕方なしに承諾した侍女は壺を抱え直し、足早に階下へと向かった。
メリッサは再びゆっくりと明かりの灯る部屋へと向かった。
侍女や侍従達は歩むメリッサに慌てて向き直り、頭を垂れる。その衣擦れの音が、まるでさざ波のように奥へと続いた。
奥にある寝台の横に佇んでいた男は、入ってくる王妃に気づき、腕の中で泣く赤ん坊を抱えたまま、素早く膝をつく。そのしなやかな動きには無駄がなく、優秀な武人であることを示していた。
「バンキム、来ていたの?」
「城下で控えておりました。産婆の許しが得られ次第来たかったので」
無骨な武人でありながら、そんな事を顔色も変えずに言う。
「シーリーンもよい伴侶を持ったこと」
寝台に眠る女性を見やり、メリッサは微笑む。
鏡で映したかのように、眠る女性はメリッサに似ている。
「…本当に、わたくしは良いナナイに巡り会えました。第一子のみならず、二子までも同じ時期に産んでくれるとは…」
頭を垂れたバンキムの肩に手を置く。
「わたくしのナナイであるがために、シーリーンには多くの無理を強いています。お前にも、苦労をかけているわね」
許しもなく、バンキムは顔を上げ、妻によく似たメリッサの目をみつめる。
「愛しい女の我が儘は、かわいいもんです」
相変わらず表情はないまま、ぱちりと片目をつむってみせる。
ぷ、とメリッサは吹き出し、口を開けて笑ってしまうのを手で隠す。
「シーリーンに免じて、わたくしの我が儘も少しは許して頂戴ね」
くすくすと笑いながら、メリッサは泣き続ける赤ん坊を受け取るように、手を差し出した。
「王妃?」
「わたくしの子は乳母達が連れて行ってしまったの。少し熱があるのですって…」
バンキムから赤ん坊を受け取り、メリッサは優しくあやす。
「王妃たる者、子にお乳をあげるなど、してはいけないのですって」
寂しげに呟くメリッサの胸を、赤ん坊が軽く掴んだ。
メリッサは微笑み、軽く赤ん坊に口づけする。
「名は決めたの?」
「キーエンスと。…祖母の名です」
キーエンス、と呟き、メリッサは記憶の底からかけらを拾い上げる。
「…子どもの頃、ルナリア国の王子にお会いしたけれど…確かキーエンスと名乗られたような気がするわね」
「あの地の王族は、性別を逆にして暮らすのです。…王族と同じ名を民衆が名付けたがるのはよくあることですよ」
相変わらず表情の無いまま、バンキムが言う。
ふん、とメリッサは鼻を鳴らす。
王族相手に物怖じしないこの男が、ただ者ではないことなどわかっている。
「ほんに、シーリーンはよい伴侶を見つけたこと。…ねぇ、キーエンス、お母様が目覚めるまで、わたくしと一緒におりましょう?美しい朝焼けでも見に行きましょうか?それともお乳を飲む?」
腕の中の赤ん坊をあやしながら、メリッサは寝台から離れた。
「俺も少ししか抱いてないんだが…」
メリッサを見送り、バンキムは立ち上がりながら、めずらしく情けない声で呟く。
「…あなた…?」
「シリウス、目覚めたか」
寝台へ身を乗り出し、妻の手を握る。
古の星の名で呼ぶ夫の声に、シーリーンは甘く口元に笑みを浮かべる。
「わたくしの子は…無事?」
メリッサによく似た声で、シーリーンは呟く。
過去に冬の池に落ちて以来、あまり身体が丈夫ではなくなってしまった。それでも、二人目の子を身ごもることが出来た。
「ああ。キーエンスは元気に泣いていた」
「キーエンス…、では女の子なのね」
あらかじめ決めておいた名を聞き、シーリーンは微笑む。
バンキムはわずかに目を伏せる。
握る手に力がこもったことに気づいたシーリーンは、重たい体を起こして、バンキムを抱きしめる。
「…ごめんなさい…あなた。きっとキーエンスも王女のナナイになる
わ。…心配をかけてしまうわね」
「なに、心配などしない」
そっと抱き返し、バンキムは愛する妻を優しく寝台へと横にさせる。
「俺が身を守る術を教える。…心配などしない」