直
雨の日は好きじゃない。
柔らかい髪の毛が湿気で広がるから。机や椅子が湿っぽくてベタベタするから。
もうとっくに忘れたと思っていたはずの腕の痛みを思い出すから。
「雨降りそうだなー」
ベランダの手すりにもたれて見上げた空は一面灰色の雲に覆われていた。頬を撫でる風も湿り気を帯びて温い。
「何だ、直、傘ねーの?」
「うん」
窓枠に体を預けている市村に頷いてみせると、市村は呆れたような表情で顔を眇めた。
「天気予報見てきてねーの? 降水確率八十パーセント!」
「朝テレビ見るヒマねーもん」
「降ったら入れてってやろっか?」
「いらね。男同士でアイアイ傘とか超不毛。濡れた方がマシ」
揶揄するような笑顔を憮然とした表情に変える市村の前を通って教室に入る。後ろから文句を言いつつ付いてくる市村を適当にあしらいながら席に戻ると、日誌の間に挟んでおいたはずのシャーペンがなくなっていた。
「あれ」
「どした? 直」
「シャーペンがない。ここ置いといたはずなんだけど……」
キョロキョロと辺りを見回して、机の中や下を覗き込む。しばらく市村も一緒に探してくれたけれど見つからなくて、俺は諦めてため息をついた。
「使い易かったんだけどなー。でもまあいいか。仕方ない」
「直ってさ、あんまり物に執着しないタイプ?」
椅子の背に頬杖をつきながら訊く市村に、質問の意図がわからず首を傾げる。
「……何でいきなり」
「だって、今のシャーペンも簡単に諦めたし、二組の今村さんも簡単に別れたし」
「いや、アレは別に。つーか、今村とシャーペンを同列に扱うってどうよ」
「俺は知らなかったよ、直! もう既に彼女いるとかさ!」
「だから、あれは今村が勝手に……」
「勿体ないよなー、あんなにかわいい子簡単に手放すなんてさー。俺だったら泣いて別れるの嫌だーって言うけど」
「……」
人の話を聞く気があるのか、この男は。
そもそも別れただ何だの話は今村が勝手に進めたことで、俺はあまり関係ない。入学式の時席がたまたま隣りだったのがきっかけで、親しげに近づいてきて、気がつけば弁当作ってきたりマメにメールしてきたり、いつの間にやら彼女のように振る舞いだした女。
俺が放っておくと「あたし直君の何なの?」とか何とか公衆の面前で言い出して、付き合ってもないのに別れられた。正直、可愛いかどうかも良く覚えてない。
被害者は俺なのに、いつの間にか俺の方が悪いような扱いになってしまっている。
「女ってめんどくせ」
「わー、ひでーわねー、直」
「……っ! 怜! おま、何しに……」
「合宿のお土産~。いっぱいあるからお友達君も一緒に食べてね」
「わー、ありがとうございますー!」
廊下側の窓の向こうから突然現れた怜に、市村は動揺することもなく土産を受け取っている。何でこんな社交的なんだ、こいつは。
「榊です。直がいつもお世話になって~。直のお友達? お名前は?」
「あ、市村です市村貴士!」
「市村君。仲良くしてあげてね。ツンツンしてて可愛くないけど、多分照れてるだけだから」
「あ、やっぱりそうなんですか? やーもう、直君のツンデレぶりはゴールデンウィーク中にしっかり」
「へ?」
「だー、もう! 出てくんな、市村!」
「ええー、俺だって先輩と話したいのに直ヒデー! 一緒にキンキ歌った仲じゃんか!」
「あー、ハイハイ。わかったから! で? 怜、合宿どーだったんだよ?」
「あ、うん。楽しかったよ。お茶摘みとかやらせてもらっちゃったし。あ、こっちお茶ね、おばちゃんに」
「どーも。つーか、何で一週間も経ってから?」
未だ出てきたがる市村を抑え込みながら尋ねると、怜は何故か気まずげに目を逸らす。
「合宿帰ってきてから風邪で寝込んでたのヨ……。あ、でも賞味期限はまだ大丈夫だから!」
「ふぅん。まあ、良いけど、用事ってこれだけ?」
訊くと、怜は何かを思い出したように口を動かして、それから組んだ両手を頬に当てて首を傾けた。
あ、嫌な予感。
「あのね、直君! 今週の土曜日練習試合があるんだけど、良かったら見に……」
「空いてません!」
ぴしゃりとはねのけると、怜は笑顔のまま固まった。たっぷり三秒睨み合った後、怜は営業用スマイルを解いて渋い顔で舌打ちをする。
「ちっ。直のケチ」
「ケチ呼ばわりされる言われはない」
「あ、じゃあ再来しゅ……」
「行きません!」
「ぶー」
「かわいこぶっても無駄ー」
怜が更に何か言おうと口を開きかけた瞬間、呑気な予鈴の音が教室に響く。二人同時に時計の方へと目を遣ってから、怜は無念そうに口を尖らせた。
「むー、話の途中なのに……。じゃあ、あたし教室戻るね。練習試合の件、気が変わったら連絡してね!」
顔の横に手を上げると、踵を返してパタパタと走り去っていく。
「……やれやれ」
怜の後ろ姿を見送ってほっとしたのも束の間、すぐ横でガサガサと紙を開く音に目を遣ると、いつの間にか俺の腕から抜け出した市村が早速土産を開けていた。
「あ、うなぎパイ! 俺これ好き~」
「おま、勝手に開けるなって」
「だって、食べて良いって先輩言うから。あ、そうだ、直君直君、授業始まる前にここの訳教えて。今日当たるの、今思い出した」
「知らん。勝手に怒られろ」
「えええー! ひでー! 直の冷血漢! ムッツリスケベ!」
「人聞きの悪いこと言うな! 誰がムッツリだ!」
「じゃあ、教えて?」
英語のノートを両手で挟んでさっきの怜と全く同じポーズで首を傾ける市村に、脱力して机に頬杖をつく。もうカリカリしてる方がアホくさい。
「どこだよ?」
「やた! えーと、ここ「cry for the moon」ってどういう意味? 月に向かって泣き叫ぶ?」
「おま、それじゃまんま直訳だろ? ここは「cry for」で「泣いて○○を求める」で、「moon」は「不可能なこと」って意味」
「……泣いて不可能なことを求める?」
「つまり?」
頬杖をついたまま目線だけ動かして訊くと、市村は難しい顔でノートを睨んだまま考え込んで、しばらくしてからぽつりと呟いた。
「でもさ、やっぱ榊先輩ってかわいいな」
「お前、訳は……」
「目ぇぱっちりでさ。睫毛もちょー長かったー。あ、そーそー、知ってた? 直。榊先輩、告られたって」
言いながら、市村は箱から出したうなぎパイを俺に手渡す。
もう知らん。一回怒られるが良い。
「堀越って人?」
「何で知ってんの?!」
「いや、それは俺のセリフなんだけど」
大袈裟に驚いてみせる市村に、若干辟易しながら呟く。ちょっと前に付き合ってんのかなあ、とか聞いてきたのは自分のくせに。
「俺、野球部に友達がいるんだけど、偶然見ちゃったんだって。あーあ、これで榊先輩は人のもんかあ……」
「……怜がオッケーしたわけ?」
「うんにゃ。それは知らんけど。堀越先輩、人気あるぜ? 付き合っちゃうんじゃねーかなー」
「……そういうもんかな……」
ぼそりと呟くと、市村はやけに真面目くさった顔で俺の顔を眺めた。居心地が悪くなって軽く身を引くと、そこに勢いよく食べかけのうなぎパイがつきつけられる。
「もしかして直君、榊先輩のこと……!」
「……! ちっげーよ、バカ!」
「図星……?! 図星だ!」
「うっせー! もうお前にはやらん! 土産返せ!」
「ああ! 横暴! 俺のおやつ!」
抗議する市村から届かないように、取り上げた箱を腕を伸ばして遠くへ離す。瞬間、ぎしりと軋むように疼いた痛みに顔をしかめた。
「直? あ、腕? 腕痛いのか? 大丈夫か?」
急に俺が腕を抱えてうずくまってしまったせいか、狼狽した様子の市村の声が頭上から降ってくる。大丈夫、と反対側の手を振ってみせると、髪の毛に市村の手のひらが触れる感覚がした。
「ごめんな。ふざけすぎた」
「……平気」
額を付けた机から湿気を含んだ木の匂いがする。少しずつ収束してきた痛みに手を添えて、きつく両目を瞑る。
「いちいち痛まなくたって、ちゃんとわかってるよ……」