怜
「榊、髪に花ついてる」
呼び止められて振り向くと、堀越先輩が自分の髪に軽く人差し指を当てて立っていた。
「え、もうみんな休憩ですか? あ、うわわ、どうしよう、お茶……!」
「あ、大丈夫大丈夫、今俺だけ休憩なんだ。投球練習してたから」
爽やかな笑顔でそう言って、洗濯籠で両手が塞がっている私の頭に手を伸ばす。髪に触れる大きな手のひら。差し出された手の中を覗き込むと、白い花びらがのっていた。
「あ、本当だ、スイマセン」
「何だろ、これ。椿?」
「あ、花水木ですね。さっき下通ってきたんで、多分」
「榊は洗濯? 持つよ?」
「え! いやいやダメです! エースに雑用なんてとんでもない! 休んでてください!」
「……うん」
差し出した手から私が勢いよく後ずさると、堀越先輩は少しだけ困った様子で頷いた。
地元では少し前に桜が終わったばかりだというのに、静岡ではもう花水木やツツジの花が其処此処で咲き誇っていた。小高い丘の上にある合宿所からは眼下に茶畑が眺望できて、新茶を摘む人の姿も見える。
風にそよぐ鮮やかな緑色の波。柔らかな、若葉の匂い。
「もう一人、手伝いで来るかもって言ってた後輩、結局来れなかったのか?」
合宿所裏手の物干し場で洗濯籠を下ろす。ここでも堀越先輩は手伝うと言ってくれたのだけど、エースにマネージャーの雑用を手伝わせるなんて言語道断。結局何も手伝ってもらわないまま、先輩は手持無沙汰そうに縁側に座っていた。
「は! す、すいません、言いっ放しでちゃんとその後報告しなくて……」
「いや、それは大丈夫だけど」
「断られちゃいました。用事あるからって」
弱く笑いながら言って、洗ったばかりの練習着をロープにぶら下げていく。白く洗いあげた服の向こう、のぞく空は雲一つなく綺麗な蒼に澄んでいた。
「良かったですよね。ちゃんと晴れて。洗濯も練習も思い切り出来ます」
「はは、確かに。肘は? もう平気?」
「あ、ハイ、もう全然」
「でも、榊って結構上手いのな。驚いた」
「あ、千鳥から聞いてないですか? 私、中学時代はソフト部だったんですよ」
「へえ。ポジションは?」
「ショートです」
「ああ、上手いわけだ。でも、高校ではソフト部入らなかったんだ?」
「そういう、選択肢もあったんですけど」
音を立てて練習着を広げると、鼻梁を掠める石鹸の匂い。洗濯ばさみを拾いながら、口元に苦い笑みを浮かべる。
「柄にもなく乙女チックな話なんですけど、昔、約束したんですよ。幼馴染と。あたしが甲子園行けないから、直が代わりに連れてってくれるって。だから、先に野球部入って待ってようと思って」
確か私が小六、直が小五の夏だったと思う。
中学でも高校でも女子は野球部に入れないと知って、泣いて大暴れしたことがあった。母親も上の兄たちの手にも負えないくらいに泣いて、泣いて、泣き喚いて。そんな時に直が約束してくれた。
『俺が怜の分まで野球を続けて、甲子園に連れて行ってやる』と。
「もう、直は忘れちゃったかもしれないですけど」
「……甲子園なら、俺だって連れてってあげられるけど」
「あ、いや、それはもうそのつもりで。頑張ってサポートしていきますよ」
「……そういう意味じゃなくて、さ」
「ハイ?」
「榊は、その後輩と付き合ってたりするの?」
「へ?」
思わず間の抜けた声が出る。真面目な堀越先輩の表情に、あわてて両手を振った。
「いやいやいや、ないです! 直はただの幼馴染で、そんな風には」
「そっか」
「はい」
「何もないんだ」
「です」
「じゃあ、俺と付き合わないか?」
はい、と勢いで答えそうになって、洗濯物に伸ばした手を止めた。瞠目して振り向いた先に、堀越先輩の照れたような、けれど真っ直ぐに私を見つめる瞳。
「う、え、あの、何で……」
「結構前から、いいな、とは思ってたんだ。良く笑うし、可愛いし。告白するのは、甲子園連れていけたら、って思ってたけど、バスの中で千鳥と男の話してるの聞いちゃったら、黙っていられなくてさ」
瞳が真っ直ぐに私を捉える。
「好きなんだ。榊のこと」
困惑して泳がせた視線の中、通ってきたのとは反対側のフェンスの上に満開の花水木が映る。新緑の匂いをのせた風にそよいで、こちらに手を伸ばすよう花弁を薄紅に染めて咲き誇っていた。