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月色に花ひらく  作者: 藤堂かのこ
第一回
2/16


 一番近くにいると思ってた男の子が、本当は物凄く遠かったのだと思い知らされた。

 あの、夏の日。

 暑気を孕んだ風が、小さくカーテンレールを鳴らして吹き抜けていく。直の肘にあてた氷水の中で、きらきらと揺れていた淡い陰影。のぞいた蒼天。鮮やかな若葉の緑。

 濃い、夏の香り。

 いつだって野球のことで頭がいっぱいで、試合の時も厳しい練習の時も、泥だらけになって楽しそうに笑ってる顔が好きだった。この先もずっと直が野球をする姿を見ていられるんだって、当たり前のように信じてた。

 なのに。

『リトルリーグ肘』だと、そう告げられた。

 投げすぎや間違った投球フォームが引き起こす、成長途中の骨への損傷。気付いてあげられれば、成長障害を起こすところまではいかなかったかもしれない。それなのに、新しく始まった高校生活に馴染むのに頭がいっぱいで、直が抱えていた痛みに気付いてあげることができなかった。

「……俺だって、諦めたくなんかなかったよ」

 力なくこぼれた言葉は子供みたいに頼りなくて、その中に直の本当の気持ちを見た気がした。泣いたり、「やめたくない」と喚いて当たり散らしてくれたら、どれだけ楽だったかわからない。静かに、諦めようと気持ちをおさえつける姿なんて、見たくなかったのに。

 ぽつりと、涙のようにこぼれた声に、頷くことさえできず、ただ。

 その場に立ち尽くしたまま、嗚咽すら逃がすこともできないまま、泣いた。

 何で、直だったんだろう。

 ただ野球が好きで好きで、上手くなりたくて一生懸命だっただけなのに。

「……野球の神様は、残酷すぎだよ……」

 嗚咽のこみ上げる喉が、胸が、苦しい。上手く息も出来ないくらいに。

 カーテンを揺らす風が夏の匂いを落として吹き抜けていく。にじむ世界の向こう、直がいた鮮やかな夏の色は見えない。

 ドアの向こうに消えたエースナンバーの背中。霞んでいく景色の中に、夢の終わりを見た気がした。


 

      ◇               ◆


 薄く青を広げた空の裾野に、少しずつ夕暮れの色が混じり始めていた。桜の花びらを遊ばせる風もしだいに澄んできて、頬を撫でる風が涼しい、春の夕暮れ。

「千鳥ー、あたしは本当にヘタレだよー」

 言いながら、グラウンド脇のベンチにヨロヨロと歩み寄る。瞬間、叩きつけられた黒い長方形の衝撃に、私は再度ヨロヨロと後退した。

「遅い!」

「痛い……」

 滑り落ちてきたスコアブックを受けとめながら涙目で見返すと、千鳥の整った顔ににっこりと光が見えそうなほどの眩しい笑みが浮かぶ。

「何で怪我の消毒に行くだけで三十分もかかるのかしら?」

「す、スイマセン……」

 美人から放出される静かな怒気は本気で怖い。及び腰で呟くと、千鳥は作り笑いを解いて諦めた様子でため息をついた。

「まあ、いいや。怪我は? もう平気?」

「あ、うん、大丈夫。ごめんね。みんなは?」

「今ランニング出たばっかり。しばらく戻ってこないだろうから先に飲み物やっちゃお。……救急箱は? 中身補充してきてくれた?」

「あ」

 空の両手を広げて見せると、千鳥の泣きぼくろのあたりがぴくりと引きつるのが見えた。


「ったく、何のために保健室まで行かせたのかわかんないわ。二度手間…」

「スミマセン……」

 緩い波を描く黒髪を耳にかけながら、呆れた口調で呟く千鳥の後ろを体を小さくして付いていく。

 三十分ほど前、私がすり剥いた傷を消毒しようと救急箱を開けると、もう消毒薬の残りが少なくなっていた。傷の手当てをするついでに救急箱の中身も補充させてもらってくる、という名目で部活を抜けてきたのに、途中他のことをしてる間にすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。手当てをしたり、直と話してるうちに。

「あ、そう! そう、千鳥! さっきの話!」

「んー?」

「あたしさっき保健室で直と会ったんだけどね」

 前を歩く千鳥に追い付きながら言うと、千鳥はあからさまに顔をしかめる。

「ああ、いちゃついてたから時間かかったの」

「ちっがーう! そーいう関係じゃないっての! 幼馴染!」

「あー、ハイハイ。で、今度はまた一緒に野球やろう、って、言えた?」

 がっくりと項垂れた私を見て、千鳥は呆れた様子でため息をついた。

「……ヘタレ」

 さっき自分でそう言いましたよ。


 職員室で鍵を借りてから保健室に置き忘れていた救急箱を回収する。また職員室に戻って鍵を返して、今度は社会科準備室でお茶と氷をウォータージャグに用意。グラウンドと社会科準備室を二往復してベンチにそれらを設置すると、それだけでもうかなりの時間が経っていた。

「さて。そろそろみんな戻ってくる頃かな」

「だね。あとは何してよっか。千鳥はさっき一人で何してたの?」

 尋ねると、千鳥の目線がベンチの端に置いたスコアブックを示す。

「データ解析。来月、練習試合決まったでしょ?」

「え、もう相手校のデータ揃えてきたの? はっや……」

「イエス。当然」

 千鳥は野球部員ですら引くほどの高校野球狂だ。

 知識も情報も異常なくらい豊富だし、データ解析も驚くほど丁寧で細かい。何でも、家のパソコンには三年分の地方大会と甲子園のデータが入ってるとかなんとか。最早マニアの域。練習試合でそこまで緻密なデータをとる必要はないんだろうけど、これはもう千鳥の趣味だから仕方ない。

「続きやっても良い?」

「うん。じゃ、あたしボールの修繕やっちゃうよ」

「ん。よろしく」

「はーい。しっかし、最近ボールの消耗早いよね。一年生いっぱい入ったからかなー」

「そうかもね。豊作でありがたいことだけど、女子マネ獲得ゼロは痛かったわ」

「あー、確かに」

 去年の県大会の成績がそこそこ良かったおかげか、それとも千鳥効果か、今年の新入部員は私たちが想像していた人数よりもずっと多かった。部員が多くなるのは喜ばしいことだけど、当然、それに比例してマネージャーの仕事も増える。

 前の三年生が引退してから今まで、四人でやっていた仕事を二人でどうにかこなしてた状態だったから、これが夏大まで続くとなるとちょっと大変かもしれない。

「そういえば、新歓の時に思ったんだけどさ」

「うん」

「直君、ちょっと大人っぽくなってたね。最初わかんなかった」

「ああ、そだね。髪の毛伸びたし」

 千鳥も私と直と同中の出身だ。千鳥と直にあまり接点はなかったけど、私がちょこちょこ話に持ち出すものだから自然と顔も名前も覚えてしまったらしい。

「髪型もあるけど、何て言うのかな、雰囲気がちょっと落ち着いてたというか。男の子も一年で変わるものなんだね」

「……ああ、それは、確かに」

 唇からこぼれた言葉が、力なく響く。千鳥が訝しげに呼ぶ声に取り繕うように小さく笑って、針とボールを箱の中に戻した。

 膝に肘をついて、遠く、眺望する主のいないグラウンド。西の空に混じり出すオレンジ色に、風に舞う桜の花びらが溶けていく。

「何か、直が遠くなった気がしたな。あたしは」

 昔はなかったはずの距離感。

 小・中と学校が離れた時だって、会えば一緒にキャッチボールしてたし、お互いの家に行き来するのだってほとんど気を遣ってなかったはずだった。

 それが、あの夏の日以来、二人の間に出来てしまった微妙な距離と境界線。

 私立受験を決めたことも、それがダメになって同じ高校に入ってくることも、全部母親から聞いてたけど、新入生歓迎会の日体育館でばったり直と会った時には、動揺してぎこちない対応しかできなった。

 直は、全然変わらずに接してくれたけど。

「あたしが男の子だったら良かったな」

「え。何でまた」

「だって、男同士の方が言い易いことってきっといっぱいあるじゃない? それに、男同士だったらキャッチボールで心の会話! とか、拳でわかり合う熱い友情! みたいのが出来たかもしれないし!」

「いや、それは肯定しかねるけど。だいたい、直君そういうタイプじゃないでしょ……」

 呆れ顔の千鳥の言葉に、私は握りこぶしを解いてしょんぼりと肩を落とした。

 新歓の日、直が普通に接してくれたことが悲しかった。

 私は直の痛みに気付けなかったことをずっとずっと悔やんできたのに、直にとってはもう、あの夏の日のことも、野球も、全部終わりになってしまってるみたいで。

「……「諦めたくなかった」って、そう言ってたのにな」

 泣きそうな声で呟いたあの言葉は、今でも棘みたいに胸に刺さったままでいる。

 だけど、一番側にいると思っていた幼馴染に手を振りほどかれたことが悲しくて、傷つけるのも傷つけられるのも怖くて、新歓で再会するまで自分から会いに行くこともできなかった。

 新歓の後も、何度か直と話す機会はあった。

 でも、野球のことを話題に乗せようとするたび、揺らぐ直の瞳の奥に、何も言えなくなる。たった一言、「また野球しよう」と言うだけのことが、こんなに難しいなんて思ってなかった。

「合宿、誘ってみたら?」

 苦笑まじりの言葉に疑問符を浮かべると、千鳥はスコアブックに目線を落としたまま言葉を続ける。

「マネジの仕事手伝いって名目でさ。他の人が野球してるの見たら、また自分もやりたい、って思ってくれるかもしれないじゃない」

「き、来てくれるかな……?」

「さーあ? それは直君の気持ち次第だけど」

 悠然と呟いて、大きな瞳を虚空に向ける。

「何もしないよりはマシだと思うよ?」

 そう言って柔らかく笑うと、千鳥はスコアブックを体の横に置いてゆっくりと立ち上がる。横顔に射す柔らかなオレンジ色の光。

 野球部員たちのランニングの掛け声が、グラウンドに近づいてきていた。

 


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