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月色に花ひらく  作者: 藤堂かのこ
第八回
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 診察室のドアが開く音に、怜はつられるように顔を上げた。俺の右手に白い包帯が巻かれているのを見て走り寄ってくる表情には、まだ不安の色が濃い。

「先生、何だって?」

「軽い打撲とすり傷。あとは何ともないって。怜は? 怪我とか平気?」

「大丈夫。おかげさまで。ありがとうね」

「市村と千鳥先輩は?」

「先に帰ってもらった。もう遅いし。市村君には後で直から連絡しておいてね。凄い心配してたから」

「ん、わかった」

 頷いて、長椅子に腰を下ろす。

 怜は立ったままで、心配そうに手を握りしめていた。

「んな泣きそうな顔すんなって。大丈夫だから」

「……泣いてない」

 一瞬、感じた妙な既視感。記憶を辿りかけて、すぐに気付いた。一年前の夏、交わしたのと同じ遣り取り。

「ごめんな」

 呟く声はリノリウムの床に反射して、静かに夜の病院に響いていく。

「……別に、何事もなかったからもう良いけど」

「そうじゃなくて。……目、すげー腫れてるし」

 呟くと、怜は慌てて目元を覆った。

「べっ、別にこれは泣いたとかそういうわけじゃなくて」

「まだ、グローブ持っててくれてるか?」

「……捨てないよ。昨日の今日で」

「俺さ、昨日のことで、怜は俺のこと嫌いになってるかと思ってたんだ。てか、自分でそうなるように仕向けたんだけど」

「……何、言ってるの?」

「市村に言われた。俺は、逃げてるだけだって」

 淡く笑んで、包帯の巻かれた右手を撫でる。

 鉄柵から落ちてくる怜に追いつくように精一杯伸ばした肘が、柔らかく痛みはじめていた。今更のように実感する。市村の、真っ直ぐな言葉。

「本当は、怜と会いたくなかったんだ。怜といると、どうしたって野球のこと思い出すから」

「……」

「だから、怜のこと遠ざけようとしてた。自分が、これ以上苦しまないように」

 だけど、怜が鉄柵から落ちたあの瞬間、今まであんなにこだわってた腕の痛みも、怪我することも、全く考えてなかった。気がついた時には体が勝手に動いていて、頭には怜のこと以外何もなかった。

「痛くても、苦しくても、怜のこと失くしたくないって思った」

 静かに言ってから、目線を上げる。

 泣きそうな顔で、でも真っ直ぐに俺を見てくれる瞳に、胸の奥が甘くしめつけられる感覚。小さい頃からずっと、胸の中にしまい込んでた思いがくすぐったいような温かさを連れて、ゆっくり心に広がっていく。

「俺、怜が好きだ」

 きっとこの腕の柔らかな痛みごと、全部。

 淡く笑って言うと、怜の瞳が驚いたように瞬いて、それから、ひとつ、静かに涙がこぼれ落ちる。ひとつ、またひとつと、怜すら戸惑っている様子で、次々と頬にあふれて、こぼれ落ちていく。

「あ、うわ、やだな、止まらない」

「俺もう怜のこと甲子園に連れていけないし、まともに野球もできないけど、怜の側にいても良い?」

 立ち上がって顔をのぞき込むと、怜は涙でぐちゃぐちゃになった顔で睨むように俺を見上げる。

「あたしはまた、直を傷つけるかもしれないよ?」

「良いよ。俺のが、怜のこと傷つけたし」

 言うと、怜は黙ったまま、俺の腕の包帯の巻かれた部分に拳をあてた。

 刹那、疑問符を浮かべる間もなくそれがぐりぐりと傷口にねじ込まれる。

「いだだだだだだ! 痛い! 怜、痛いって!」

「ばっかじゃないの!」

「……怜?」

 涙目で見返すと、怜はさっきよりも更に盛大に涙をこぼしながら、ひとつ、乱暴に息を吐いた。

「寝ぼけたこと言わないで! 傷つけてたのはあたしの方じゃない! 無神経で鈍感で、直の気持なんか全然考えてなかったのに、なのに、あたしのこと庇ってこんな怪我までしてバカじゃないの! 本当バカ!」

「……バカバカ言いすぎなんだけど……今日何回目……」

「あたしは、直に好きになってもらうような資格なんてない」

「……」

「でも、こんな傷つけてばっかりなのに、直が側にいないと苦しいの」

「……怜」

「直が好きなの」

 真っ直ぐ、俺の目を見て紡がれた願うような声。言うと同時に、瞳が大きく揺れて、頬にぽたぽたと涙がこぼれる。俺の腕を掴む怜の手のひらに、切ないくらいに力が込められていく。

「側にいて。お願いだから、他の子のものになんかならないで」

 揺れる細い肩に、胸が締め付けられるような感覚。

「……さわってもいい?」

「どーぞ!」

 涙声で乱暴に答える怜に苦笑して、包帯の巻かれた右手を伸ばした。ためらいがちに伸ばした手のひらが輪郭を掠めて、そっと怜の耳元に触れる。

 柔らかい髪が指先を撫でる感覚。

 温かい、怜の温度。

「……やっと届いた」

 追いかけて手をのばして、ようやくつかまえたぬくもり。

 何だか泣きたいような気がして、誤魔化すように怜の肩口に額を押し付けた。

 そのままに抱き締めた怜の体は、びっくりするほど細くて、温かい。

「言っとくけど、俺他の子にこういうことしたことないからな」

「本当、に?」

「本当。こんなの、怜にだけだ」

 他の女の子じゃ、代わりにもなれない。

 離れていた距離を埋めるように壊さないように、きつく抱きしめる腕に力を込めた。


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