怜
「目の腫れ、少しはマシになった?」
梅雨が明けて、雨を降らせていた雲が夏の匂いを連れてきていた。渡り廊下を吹き抜けていく風の色や夜空に、色濃く漂う暑い夏の気配。
「ごめんね。夏大前なのに部活サボって」
「いいよ、今日くらいは。その顔で出てきた方がみんな心配するわ」
泣き腫らした目で部活に出ようとした私を、千鳥は保健室に押し込んで休ませてくれてた。ちゃんと冷やしてたのに、泣きすぎてまだ目が痛い。
「堀越先輩、気にしてたよ?」
「……うん」
「いっそのこと先輩と付き合っちゃったら? 気も紛れるし、直君のこと諦めつくかもよ」
「はは、出来ないよ。無理」
力なく笑って、腕を渡り廊下の手すりにのせた。軽く体重をかけると、背中が粟立つような耳障りな音を立てる。
「こんな身勝手な奴とは、付き合わない方が良いよ」
「怜……」
「あたしは自分の気持ちを直に押し付けてただけだもん。また野球を出来るようになるのが直のため、とか言って、本当は、あたしが直が野球するとこ見てたかっただけなんだよ」
ふと、聞こえてきた足音に耳をすませた。
見下ろすと、渡り廊下の下、直とそれを追いかけてくる市村君の姿が映る。図書館にでもいたのだろうか。すぐ下を通って、昇降口の方へと歩いて行く。
「前にも訊いたけど」
静かに響いた声に顔を上げた。
「今は直君のことどう思ってるの? って答え出た?」
柔らかい声の調子で尋ねる千鳥に、私は軽く首を振る。
考えれば考えるほどわからない。家族みたいに近くて、弟みたいに気安くて、ずっと一緒にいた大事な幼馴染。それだけで言葉にするには十分だったはずなのに、今は、それだけじゃ何かが足りない気がしてる。
直の笑う顔から目を逸らすように背中を向けて、鉄柵に強く背中を押し付けた。
親しげに話す声に、胸がざわざわする。
視線を落とした足もとに、伸びる片陰。耳障りな軋み。
何でだろう。ほんの少し前まで、こんな風に苦しくなることなんてなかったはずなのに。
「怜、あんまり背中押しつけると危ないよ」
「……うん」
「怜」
やんわりとたしなめるような声に顔を上げかけたその時、鼓膜に叩きつけるような音が響いて、次の瞬間、背中にあったはずの支えが消えた。
千鳥の呆けた表情と、校舎の壁が下から上にゆっくりと流れて、最後に瞳いっぱいに夕空が広がる。
空を行く風の流れが速い。雲が切れて、淡くこぼれ出す柔らかな月の光。
「怜!」
千鳥の悲鳴みたいな呼び声が鼓膜を打って、ようやく鉄柵から落ちたんだと理解した。
他人事のように、冷静に。
無意識に伸ばした指の先、夕空の天心に宿る月は爪先が掠めたと錯覚をおこすほどに、くっきりと鮮やかな正円。
淡い光を溶かした雲は月を中心に据えて、まるで花びらのように。
月色に花ひらく。
ああ、どうして気が付かなかったんだろう。この胸を占める、痛みの名前。
あんな風にもう自分では抱えきれないくらい、大きく膨れ上がってあふれ出してしまっていたのに。
野球を取り戻してほしかったのも本当。
直がまた野球する姿を見たかったのも、約束を叶えてほしかったのも本当。
でもそれ以上に、笑ってる顔が見たかった。
野球をしてた時みたいに、楽しそうに、幸せそうに。誰かの隣りじゃなくて、私の側で笑っててほしかったの。
突き放したくなるくらい苦しい思いをさせてることが、笑顔を曇らせてしまうことが寂しい。
だって、こんなに好きだったのに。側にいたいのに。
なのに、どうして私は直を傷つけることしかできないんだろう。
泣き出したいような気持ちで、きつく目を閉じた。
想像していたはずの衝撃は思っていたより軽く、少し待っても死ぬほどの痛みは襲ってこなかった。 もしかして、もう死んだかも。
そろそろと目を開けると、すぐ目の前で淡い茶の髪が揺れる。
「……っぶ、ねー…」
その一言が合図。短い瞬間にあった出来事が一気に繋がった。
千鳥の私を呼ぶ声、宙を掠めた指先、のぞいた夕空。
腕を伸ばして、私の真下に走り寄る直の姿。
「な、に考えてんのよ、このバカ!!」
叩きつけるように怒鳴ると、直は大袈裟なくらいに首を竦めて体を小さくした。
「あぶないでしょーが! たかが二階程度の高さだって下手したらアンタだって危なかったのに!」
「いや、それはわかってたんだけど」
「わかってない! 無茶ばっかりして本当信じらんない!」
怖かった。
すごく、すごく怖かった。今頃になって手の震えと恐怖がのぼってくる。
でも、目を開けた瞬間直の顔があって、涙が出そうなくらい安心した。
「うん、ごめん。ごめん、怜。謝るから、」
「から何?!」
「怪我ないか?」
「……ねーよ!」
泣きそうになったのを誤魔化すように、乱暴に答える。
すると直の瞳が心底安心したように揺れて、くたりと額を私の肩に乗せた。
「良かっ、た」
抱きしめる腕は細かく震えていて、心底安心した口調で言うものだから怒りたいのも怒鳴りたいのも引っ込んでしまった。