直
「直、昨日先輩と何かあったんか?」
「何もねーよ」
「……そか。ごめんな」
「何で謝んの?」
べたりと机につけていた頬を離して見上げると、市村が泣きそうな顔でこちらを見つめていた。
「だって、直、一日ずっと元気なかったし。本当は、野球やりたくなかったんだろ。なのに、俺、無理やり……」
「いーよ、別に。もう済んだことだし」
半眼で投げ遣りに答えると、市村は椅子の背もたれを抱きしめるように、しょんぼりと肩を落とした。
空調の音が静かに響く。
七時を過ぎた図書館は自習室以外明かりが落ちていて、生徒ももうほとんど残っていなかった。暗い部屋の底でぼんやりと光る、常夜灯の淡い光。
「直。俺さ、本当は直が野球やりたいんじゃないかって思ってたんだ」
市村の言葉に、俺は大仰に顔をしかめて体を起こす。
「……何で?」
「未練なんかないって言ってたけど、榊先輩や野球のこと話す時の直見てたら、とてもそうは思えなかったし。だから、直にお願いしたんだ。草野球の試合出てくれって。野球楽しいって、再確認してくれるんじゃないかと思って」
「……」
「なあ、またやってみて、楽しいとか、全然思わなかったか?」
「思わなかったよ」
語尾に被せるように乱暴に言うと、市村は悲しげに眉をひそめる。
「肘痛ェし、全然思うように体動かないし、苦しいばっかりだ」
「……さっき、榊先輩と千鳥先輩のこと見かけたよ」
「二人のことは、今関係ないだろ」
「榊先輩、目すげー腫れてた」
小さな痛みが胸を焼く。眉根を寄せて、目を逸らした。
「やっぱ、先輩と何かあったんだろ? じゃなきゃ、直だってそんな苦しそうな顔…」
「もう野球しないって、そう言ったんだ、怜に」
「え?」
「あいつはずっと、俺にまた野球やらせたかったんだよ。俺はわかってて知らないフリしてたけど、いつまでもそんな状態続けてるわけにいかないだろ。俺はもうまともに投げらんないし。だから、もうやらないって、そう言ってきた」
「先輩は、何て?」
考えてみたら、怜は、そう、とも、わかった、とも言わなかった。泣きそうな顔で、ごめんね、と呟いた声が今更のように耳の奥で響いて、痛む。
「……特に、何も」
「直は? 本当にそれで良いのか?」
「良いも何も、出来ないんだから、仕方ないだろ」
「それって、逃げてるだけじゃねーの?」
「な、」
苛ついて声を荒げようとして、口を噤んだ。責めるでもなく怒るでもなく、ひどく真剣な表情で俺を見つめる市村の視線がそこにある。
怯むほど真っ直ぐ、俺を捉える真摯な色を帯びた瞳。
泣きそうに、けれど真っ直ぐに俺を見返した怜の瞳が重なった。
ひどく傷つけた。
昨日も、あの夏の日も。
俺が野球を出来なくなったことを自分のことのように受け止めて、ずっとずっと、俺が野球を取り戻すことを願ってくれていたのに。
けど。
叶わないものに手を伸ばすのはもうやめた。
追いかけて追いかけて、突然手を離されるあの気持ちはもう味わいたくなんてない。失くしかけた野球に不様に縋りついて、それでも手が届かなかったらどうする。
最初から願わなければ、今諦めてしまえば、これ以上失望することも傷つくこともなくて済む。だから、手を伸ばすことをやめた。そうすれば、楽になれると思ったから。
それなのに、氷水の奥底に閉じ込めて、忘れ去ろうとしていた痛みが消えない。
じくじくと消えることを拒むように疼いて、こんなにも苦しい。
「何で、お前らって俺が野球好きだって信じて疑わねーの?」
「直が、苦しそうだから」
疑問符を浮かべて見返すと、市村は拗ねたような顔で俺を睨む。
「苦しいのは、好きだからだろ?」
切なさを孕んで胸に刺さった言葉に、泣きそうになったのを顔を背けて誤魔化した。無理に笑おうとしたけど上手くいかなくて、結局泣きそうな顔になってしまった。
「マジで、そんだけの理由?」
「おうよ」
「はは。お前って、実はすげーんだな」
「今頃気付いたか」
「うん。本当、気付くのが遅すぎたわ」
「……直?」
もう、遅い。手が届かないように傷つけて、突き放したのは俺自身だ。
痛みの奥に留めていた気持ちが、出口を探して騒ぐ。だけどもう、それをどうやって逃がしたら良いのか。それさえも分からなかった。