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月色に花ひらく  作者: 藤堂かのこ
第五回
10/16


 梅雨ももうすぐ終わりに近づいた六月の最終日。

 夕食後、呼び鈴の鳴る音に玄関まで出ていくと、私服姿の直が立っていた。思ってもみなかった訪問客の姿に思わずドアを開けたまま硬直する。

「よ」

「どしたの、珍しい」

「去年の数学のノート貸してくんね? 明日テストでさー」

「別にいいけど、友達に見せてもらった方が早いんじゃないの?」

「市村が俺のノート持ってるの忘れて帰りやがったんだよ。第一あいつのノート汚すぎて読めねーし」

「ええぇ……。仕方ないな。じゃあ探してくるから部屋で待ってて」

「ん。よろしくー」

 直を家に招き入れると、私は先に階段を上って屋根裏の納戸の電気をつける。階下からは母親が嬉しそうに対応する声が聞こえていた。


「ハイ、これ一学期の分ね」

 二階の部屋に入ると、直は母親が出したらしい緑茶を呑気にすすっていた。私が差し出したノートを受け取ると、適当にページを繰って何か確認するように頷く。

「うん、必要なとこちゃんとあった。ありがとな」

「どーいたしまして。ゆっくり使ってちょうだい」

「うん、ども」

「……用事ってそれだけ?」

 ベッドに腰を落としながら尋ねると、直は突然何を思ったのか、湯呑を置いて居住まいを正した。つられて背筋を伸ばすと、直の目線が壁に貼ったカレンダーの方へ注がれる。

「あのさ、怜、来月の最初の日曜ってヒマ?」

 七月の最初の日曜は夏の大会前最後の練習試合が組まれていた。確か、午前だけで午後の練習はなかったはずだ。

「……午後からなら」

「ちょっとだけ付き合ってくんね?」 

「何か、用事?」

「うん。当日、来てくれればわかるから」

 全てを話したがらない直の様子にすっきりしないものを感じたけれど、真面目な表情をしているので、取り敢えず釈然としないながらも頷いた。

 何でだろう。

 最近直がこんな風に真面目な顔をしてることが多くて、どうもムズムズして落ち着かない。雨の日に一緒に帰った時も途中から難しい顔で黙りこくってしまって、話しかけても生返事ばかりだったし、何かと口実を見つけてクラスに会いに行っても、ほとんど相手してくれなかったし。

 それが、突然直自ら乗り込んでくるとは。一体来月の日曜に何が。決闘?

「にしてもさ」

 不意に、気安い調子で響いた声に我に返る。見ると、直が渋い顔で部屋を見渡していた。

「随分女の子らしくなったな、怜の部屋。俺すっげー居心地悪いんだけど」

「あー。これ、勝手に改装されたのよね……」

 小学校の頃、とても女の子の部屋とは思えないくらい殺風景で散らかり放題だった私の部屋は、中学に上がって野球をやめた時、今が好機、とばかりに母親と妹に夢見る兄二人に大々的に改装された。

 野球選手のポスターは剥がされてキャラクターもののカレンダーに代わり、漫画本は兄貴の部屋に収容され、窓辺にはレースのカーテン、ベッドサイドにはクマやウサギのぬいぐるみ、小物類はピンク基調のものが並び、見事母親と兄貴好みの乙女部屋が完成した。

 部活から帰って来て部屋のドアを開けた時には、驚くとか怒る以前に帰ってくる家を間違えたかと思った。

 さすがに今はもう慣れたけど、当初は居心地が悪くて仕方がなかった。

「まあ、オテンバだったあたしも少しはこういう部屋が似合う女の子になったかしら? みたいな?」

「は。似合ってねーし」

「超失礼!」

 手近にあったブタのぬいぐるみを投げると、直はそれを簡単にキャッチしてあぐらの間にのせた。 

 ち。投手の反射神経はまだ健在か。

「大体さ、怜はオテンバとかいう可愛いレベルじゃなかっただろ。じゃじゃ馬っつーか、暴れ馬っつーか。ガキ大将だったし」

「あー、まあ、そうねえ……」

 呟きながら、全盛期だった小学校時代に思いを馳せる。

 女の子の筆箱にカエルを入れておいて泣かせたり、近所のガキ大将と河原で決闘したり、兄貴の靴の裏にガムテープを張っておいてぶん殴られたり、他にも他にも、思い出せばきりがない。今となっては良い思い出だ。

「ホラ、俺がリトルの試合で初めて投手任された時とかさ、俺が六年に絡まれてたの、怜が助けてくれたじゃん」

「あー、あったねえ。懐かしい」

「俺はびっくりしたよ……。いきなり出てきて飛びかかってくから」

「だって、あれはアイツ等があんまりにも無神経だから腹立って」

 確か、私が五年生の時。直が初めて先発を任された練習試合で、私たちのチームは十二点差でコールド負けした。

 直は好投してたけど、それ以上に相手の打線が物凄く強くて、私たちもカバーしきれないくらいにとにかくもう打たれまくった。相手チームの投手にも全く手が出せず、見事な惨敗。

 要はレベルを読み間違った監督が悪かったのだ。

 それなのに、負けたのを直だけのせいにして、大勢で四年生一人を責める上級生共の腐った性根が許せなかった。

「でもあれは大人しく苛められてた直だって悪いんだからね。やられたらやり返せば良いのに!」

「その発想は女子的にどうかと思うけどな…。でも俺出る幕なかったし」

「あー、まあ、あの子ら意外に弱かったからね……」

「あれで俺は自尊心をいたく傷つけられた。年上とはいえ女の子に守られちゃったからさ」

「え、嘘、ごめ……」

「嘘ー」

「……」

 憮然とした表情で口を噤むと、直は小さく噴き出す。

「怜、喧嘩した後ずっと泣いてたし」

「……だって、悔しかったんだもん」

 先発を任されて、直が物凄く喜んでたことも、毎日遅くまで投球練習をしていたこともちゃんと知ってた。だから一生懸命頑張ってた直をけなされたことが悔しくて悔しくて仕方なかった。喧嘩で勝っても悔しさが治まらないくらい。怪我したとこも痛かったし。

「あれ、実は結構感動だった。誰かが自分のために怒ってくれるのって、嬉しいもんなのな」

 穏やかに笑って紡がれる言葉に、胸の奥が締め付けられるような感覚がする。名前を呼びかけて、ふと、湯呑みを口元に運ぶ手に視線が吸い寄せられた。野球をやめてから日焼けすることもなくなった手の甲に浮いた筋と長い指。こんなに大きかったっけ?

 何となくむずむずした感覚を持て余していると、鼻先に押し付けられたふわふわの感触。視界が広くなると同時に、さっき直に投げつけたブタのぬいぐるみが膝の上に落ちる。

「変な顔。俺もう帰るな。勉強しねーと」

 悪戯めいた笑みを浮かべる直を、憮然とした表情でねめつけた。


 あと少しだけでも、と直を引き留めようとする母親をなだめて外に出る。街灯に照らされて、雨粒をたたえた玄関脇の紫陽花が淡く浮かび上がって見えた。

「ごめんね、結局遅くなっちゃって」

「いや、俺も久々だったから。おばちゃんたちと会えたのも嬉しかったし」

 そう言って、淡く笑う顔。

 どこか大人びたように見える表情も、こんな見上げるような位置にあっただろうか。

「……何か、顔付いてる?」

「直。手比べっこしよう」

「は? 何で?」

「いや、何ででもないけど、何となく」

 街灯の弱い灯りの中に、戸惑ったような直の表情が浮かぶ。自分の右手を差し出して有無を言わせない雰囲気を漂わせると、直は右手を差し出して、不承不承手のひらを合わせた。ほんの少しだけ重ねた手のひらは、直の方が想像していたよりずっと大きい。

「負けたか」

「そらそうだろ」

「背も、また伸びたね」

「あー、まだ伸びてるみたいだな。ありがたいことに。肘は伸びねえけど」

 冗談混じりの言葉。

 わかっていたのに、自然、こわばってしまった表情。取り繕うこともできずに固まっていると、直の方が困ったように笑って軽く私の頬をつねる。

「んな顔すんなって」

 笑い含みの声に瞳を上げると、真っ直ぐに交わるお互いの視線。子供っぽい笑顔が淡く解けて、見たことがないような男の子の顔になる。

 輪郭を撫でた指先に、喉の奥が柔く痛む感覚。

「ごめん。じゃ、俺帰るな」

 顔を俯かせながらそう言って、答えも待たずに去っていく背中を見送った。

 角を曲がるまで見届けてから、ゆっくり門の中に戻る。

「……びっくりした、な」

 六年前、上級生と喧嘩してから泥だらけで辿った帰り道、たどたどしく髪を撫でてくれた手のひらも家に着くまでずっと繋いでいてくれた手も、私の方が大きいくらいだったのに。

 いつの間に手も顔も、あんなちゃんとした男の子みたいになってたんだろう。

 直が触れた頬に、それを辿る指先に、ほのかに残る柔らかな体温と輪郭を撫でた硬い指の感触。

 あんな風に、付き合ってた彼女にも触れたりしたんだろうか。

 しばらく身動きも出来ずに立ち尽くす。

 紫陽花の花だけが、静かに私を見つめていた。



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