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月色に花ひらく  作者: 藤堂かのこ
第一回
1/16

「……もう、できないの? 野球」

「うん。ドクターストップってやつ」

 泣きそうな怜の声に顔を上げて静かに頷いた。思いの外、穏やかにこぼれた声の調子に自分で驚いた。怜に「もう野球をやらない」と伝える時には、もっと不様な姿を見せるかもしれないと思っていたのに。

 例えば、泣いたり喚いたり。最悪、当り散らしたり。

 なのに、俺は今、怜の真っ直ぐな瞳をちゃんと見据えて、口元には笑みさえ浮かべられている。

「だから今日の試合で最後。せめて勝って終わりたかったんだけど、思うようにはいかないな。ごめんな、格好悪くて」

 言うと、怜は俯いて黙ったまま首を振る。

 怜の大きな瞳が自分の顔を映さなくなると、ほんの少しだけ体の緊張が緩むようなそんな気がした。

 中学生活最後の夏。

 臨んだ県大会の予選はベスト8にも届かずに終わりを告げた。負けたらそこで野球をやめる、そんな俺の事情になど構うことなく、あまりにも簡単に、あっけなく。マウンドに落ちた汗や涙はもう綺麗にならされて、俺が其処に立っていた足跡の欠片さえ残さない。

 試合中、焼けるような疼きを伴って腕にわだかまっていた痛みも、今は氷水に冷やされた皮膚の底。小さな疼きを感じるだけで、投げていた時のような痛みはなかった。

 土の匂いと若葉の匂いを孕んだ風が、医務室の白いカーテンの裾を揺らして吹き抜けていく。

 肌を撫でる淡い陰影。鮮やかな緑の葉陰の向こうにのぞいた蒼天。昼の月。

 濃い、夏の香り。

 怜は長椅子のすぐ隣に立っていたけれど、深く俯いているせいでどんな表情をしていたのか良く見えなかった。見つめる視界の中、巡る風が怜の前髪をさらって吹きぬけていく。それでようやく、きつく寄せた眉と泣きそうに歪んだ瞳が見えた。

「怜が気にすることじゃないよ」

 言えば、俺より一つ年上の幼馴染は、俯いたまま首を振る。

「泣くなって……」

「……泣いてない」

 見上げた口元からこぼれる、絞り出すような声。細い肩が小さく揺れて、服の裾を握る手のひらに痛々しいほどに力が込められていく。

「仕方ないよ。成長障害起こすとこまで行っちゃったらさ。でもまあ、一応最後の試合まで完投できたしそれで良しかな、って」

なお 、」

「無茶しすぎた」

 取り縋るように上向いた視線に、穏やかに答えて苦笑する。肘に当てた氷のうをそっと外すと、あれほど重くわだかまっていた痛みも熱も、ほとんど感じないくらいに引いていた。もう真っ直ぐに伸びることのない冷たい肘を軽く撫でて、そのままゆっくりと立ち上がる。

「俺、先にみんなのとこ戻るな」

「……嫌だよ」

「怜?」

「あたしは嫌だよ、そんなの! 信じたくない!」

 さっきまで泣きそうだったのが嘘のように、決然とした、怯むほど真っ直ぐな視線が俺を捉える。知らず、右肘に触れた指先に、じわり、小さな熱の存在。逃げるように目を逸らして、呟く。

「信じないも何も、実際医者からできないって言われたら諦めるしかねえし」

「そんなの納得できない! だって、もう野球できないんだよ?」

 怜の視線から逃げようとする俺を繋ぎとめるように、白い指先がユニフォームの裾をつかむ。哀切な響きを帯びて、震えた口元から言葉がこぼれていく。

「……もう、投げられないんだよ?」

 唇に乗せることさえ苦しげに紡がれた言葉。

 怜の瞳を見返すことも、目線を上げることさえ出来なかった。視界の端、苦しげに歪んだ表情から、ひとつ、またひとつ、雫があふれて、震えるくらいに強く握りしめた手にこぼれて落ちていく。

 努めて冷静に、野球をやめると伝えるはずだった。伝えられるはずだった。

 それなのに、怜の真っ直ぐ自分に向かってくる気持ちに、痛みと一緒に押しとどめていたはずの感情がやり場のない苛立ちを連れてこみ上げてくるのを感じる。広がり出す鼓動が、潮騒のようにさざめいて、じくじくと体を蝕んでいく。

「……何で、笑っていられるのかわかんないよ……」

 押し殺したような嗚咽が胸をえぐる。

 きつく閉じた瞳の中、球場の歓声が波のように鳴る。高い空に広がる蒼。強い光。濃い土の匂い。汗が頬を伝う感覚。白球に添えた指先。心臓のように、痛みで脈打つ腕。

 怜の、声。

 全てが衝動のように乱暴に駆け抜けて。ふっと、泡のように消えた。

 口元から短く息が漏れて、指先から力が抜けていく。

「……俺だって、諦めたくなんかなかったよ」

 ぽつり、涙のように力なくコンクリートの床に落ちた言葉。

 泣くことも忘れた様子で瞠目する怜の顔に憮然とした一瞥を投げて、冷然と踵を返す。

「なお、」

「先戻る」

「直ってば!」

「ついてくんな!」

 伸ばされた腕を、叩き返すように怒鳴りつけた。一瞬、交差した視線を乱暴に外して、追いかけてくる視線も名前を呼ぼうとする声も、振り切るように医務室を後にした。

 手のひらの中、一瞬だけ怜が触れた指先の熱が残る。白球を投げた時の痺れにも似て、柔く、心の深い場所で痛む。


 ひやりとした空気の流れる廊下を足早に歩く。薄暗い非常階段の入口に来たところで、壁を背にずるずるとその場に座り込んだ。

 ゆっくりと息を吸い込んで、同じだけの時間をかけて息を吐き出して。じくじくと、蝕むように広がり始めた熱を押し込めるように体を丸める。

「……っ痛ぇ……」

 肘を抱き込むように体を小さくして、不様に泣き叫んでしまいたいくらいの衝動を必死に閉じ込めた。

 きつく閉じた瞳の中、まぶたの裏がマウンドで見上げた強い光の色ににじむ。球場から届く喧騒は遠く、蝉の声や夏草の揺れる音と混じりあってコンクリートの壁に吸い込まれて消えていく。無機質な鉄筋の壁の向こう、鮮やかな夏の色は見えない。

 腕に重くわだかまる痛みも、喉の奥を締め付ける熱さも、全部全部、そうやって飲み込んで消し去ってくれたら。

 そうしてくれたら良かったのに。


       ◆               ◇


 小さく何かがぶつかり合う音に、ゆっくりとまどろみの中から浮上した。落ちかけた目蓋のまま緩慢な動作で瞳を巡らせると、淡い春の光にぼんやりと霞む視界の中、見慣れた黒髪の後ろ姿が映る。

「……何で、こんなとこにいんの?」

 未だ夢の中なのかそうでないのか判別がつかないままにぼそりとこぼすと、きょとんとした様子の大きな瞳がこちらに向けられて、次いでそれが気安げに綻んだ。

「おはよう、サボリくん。良く寝れた?」


 あの夏の日から、最初の春。

 不安定な気候も手伝って、治ったはずの腕が小さく疼き初めていた。

 そんな時にソフトボールの授業なんて出たくなくて、迷った末に結局さぼった五限の体育。養護の先生が留守なのを良いことに無断で保健室のベッドを拝借すると、春の空気が誘うまま、吸い込まれるように眠りに落ちた。

 一時間程度昼寝するつもりが、かなり本気で寝てしまったらしい。

 壁の時計を見ると既に四時。六限も終わって、部活の時間に食い込んでいた。

「寝過ぎた……」

 憮然と呟くと、怜の横顔に浮かぶ笑みが深くなる。

「寝不足だったの?」

「んー、そんなとこ」

「藤川先生さっきまで居たんだけどね、『僕もう帰るから大町まだ寝てたら起こしといてね~。サボりだからそろそろ起きるでしょー』って。適当だよね、先生なのに」

「サボりじゃなかったらどーすんだ……」

「本当に具合悪い人はあんな気持ち良さそうに寝てないって、先生言ってたよ」

「……」

「具合悪いの?」

「イイエ」

「そ。なら良かった」

 淡く笑んで、また前に向き直る。

 カーテンレールを鳴らして、陽だまりの香りを含んだ風が吹き抜けていく。怜の纏め髪からこぼれた後れ毛が、白い首筋でやわらかく揺れていた。


 県大会の後俺は野球部を引退して、以来、ほとんど部に顔を出すこともないまま中学を卒業した。怜とは受験勉強が本格化するにつれ会わなくなって、次第に疎遠になっていった。

 高校も怜とは別の私立へ進むことを決めた。

 きっと別の高校に入ったら偶然道で顔を合わせることもなく季節は巡って、胸に宿る想いも、野球への未練も、このまま色褪せて風化していくんだと思ってた。それでいいと思ってた。

 なのに、私立校の入試当日インフルエンザでぶっ倒れた。

 寝込んでいる間に試験日の早い私立校の試験は全て終わり、完治する頃には公立校の試験しか残っていなかった。当然、高校浪人など出来るはずもなく、俺は一番行きたくなかった高校へと入学するはめになってしまったのだった。

「ツメが甘かったんだよな……」

「……さっきから何一人でブツブツ言ってんの?」

「何でもないデス」

「寝言は寝てる時にどうぞ」

「へーい。……つか、怜は何やってんの? また怪我したんか?」

「またって何、またって」

「だって良く怪我するじゃん」

「……否定はできない」

 ベッドから降りて、怜のおだんご頭の上から手元を覗き込む。小豆色ジャージの膝の上には、赤い救急箱。そして、手首をひねるように伸ばされた怜の腕の中央、肘の外側には、血を盛大ににじませた大きなすり傷ができていた。

「うっわ! 痛ェ!」

「うん、いてぇよー」

 あまりの惨状に、自然と目線が傷から逃げる。

「何やったらそんな盛大に怪我すんだよ」

「遊びでノックに混じってたらこけちった」

 さらりとそう言ってのける怜に、俺は盛大に顔をしかめてみせた。

 子供の頃、俺を野球の道に引っ張り込んだ幼馴染は、今でも当時と同じノリで野球をやりたがる。今はマネージャーとして野球部に在籍しているけど、中学時代はソフトボール部で全国大会まで出たほどの腕前だから、お遊び程度の練習ならそれなりについていけるらしい。が、女の子が腕にすり傷作るほどまでに熱中するのはいかがなものだろう。

「ちゃんと水で洗ったんか?」

「うん。適当に」

「大雑把。傷残っても知んねーから」

 ため息まじりに言いながら、怜の前にある丸椅子に腰を下ろす。と、目の前に絆創膏が二枚、突き付けるように差し出された。

「……何?」

 怪訝な表情を浮かべて怜の顔を見返すと、絆創膏と怜の目線が、俺からすり傷の部分に移動する。

「一人じゃ貼れない。……ということに今気付いた」

「……貼ってくれ、と?」

「うん」

「……世話のかかる先輩」

 半眼で呟いて、怜から絆創膏を受け取った。

「抜けてきて平気なのか?部活」

「だいじょぶ。千鳥にお願いしてきたから」

「ああ、そっか。千鳥先輩、元気?」

 訊くと、怜は軽く頷いて顔を綻ばせる。

「うん、元気だよ。一年生いっぱい入ったから張り切ってるし」

「そっか。あの人も結構な野球狂だもんなあ」

「うはは。まあ、一年の実力はまだ良くわかんないから、ゴールデンウィークの合宿で見極めだけどね」

「ゴールデンウィークも部活か。球児は休みねえなあ」

「目標はでかいですから」

「はは、違いねーわ」

 微笑いながらそう言って、怜の肘に絆創膏を貼り付ける。手元に、次いで顔に、怜の目が動いたのが視界の外に見えた。

「……直は?」

「うん?」

 笑みを含んだ目線を向けると、怜の口元があ行の形を作って、次にはためらったように元に戻る。俺と交わっていた視線を外すと、弾みをつけて立ち上がった。

「なんでもね。あたし練習戻るわ。コレ、ありがとね」

「うん。どういたしまして」

「あ、出たら職員室に寄って鍵かけてもらってね」

「んー。わかった」

 小さく頷いて、保健室を出て行く怜の背中を見送る。

 その足音が消えるのを待ってから、俺はゆっくり立ち上がって保健室を後にした。


 一年の校舎と保健室のある棟を結ぶ渡り廊下は中庭に面していて、中庭を囲むように植えられた桜の木が、夢のようにひらひらと薄紅の花びらを散らしている。

 何気なく差し出した手のひらに、ひとつ、舞い降りる薄紅の花びら。ほのか、柔らかに香る春のかけら。

 野球を教えてくれたのは一つ年上の怜だった。

 野球が大好きで、地元のリトルリーグにまで入っていた女の子。越してきたばかりで右も左もわからない状態の俺は、ほとんど毎日怜に無理やり連れ出されては、男子顔負けの速球のキャッチボールに付き合わされてた。

 今でこそ髪も伸びて、顔も体つきも女の子らしくなってきたけど、小学生の頃なんて髪は短かったし、肌も真っ黒だったし、男の子と間違えられることだって珍しくなかった。

 今でも時々思い出す。

 怜の母親が怒って迎えに来るまで、近所の仲間と白球を追いかけていた夏の夕暮れ。オレンジに染まった世界。蝉時雨の波。交わした、遠い日の約束。

「ごめんな」

 ぽつりとこぼした言葉は、知らず自嘲するような響きを帯びる。怜の言いたいことなんてもうわかりきってるのに。それなのに、怜の優しさに甘えて知らないふりをさせてもらってる。

 吹き上がる風に浚われて、舞い上がる花びらの軌跡を追いかけた。乱暴に感じるほどに強く吹く風に、薄紅の欠片は渦をなして空に上る。頭上で空に溶ける風に散って、雪のように降り注ぐ。

 天心に、淡い空色を切り取る昼の月。

 俺の頬を掠めて、風を集めて、蒼天に咲き誇る桜の花。けれど、目いっぱいに伸ばした肢体も風に乗る花びらさえも、空を白く切り取る月には届かない。

 まして、己の伸びきらない腕ならなおのこと。

 遠い蒼の向こう、あの月には届かない。


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