5
その後、蛍光灯のスイッチを入れたり切ったりすることは、お父さんに代わって絵理がした。
お父さんは絵理が学校へ言った後に出かけ、絵理よりも早く帰ってきた。
お父さんはいつもと変わらない様子だけれど、ふとその顔が険しく見えることがあった。
お母さんがお父さんを送り出し、出迎える光景も変わりはないけれど、話す言葉が少ない気がする。
けれど繰り返される玄関でのやりとりは何も変わらない。
水槽の外の世界に、また日常の光景が戻ってきているようだった。
けれど、水槽の中では……。
ブラックエンゼルはごちそうを少ししか食べない。
絵理も食べ残しに気が付いているようで、ごちそうの量が少なくなった。
水が腐った食べ残しで汚れることはなくなった。
けれど不安は澱のように溜まっていく。
ブラックエンゼルの体色は艶が消えていた。
体色も黒というより濃い灰色になっている。
泳ぎにも以前の優雅さがなく、ろ過器が生み出す水流に極力逆らわないよう、ふらふら泳いでいた。
「……、ほんとにぼくは弱いよね。自分でも情けないな」
「そんなことないわ、でも、無理をしないでね」
「……ありがとう、
でもね、体はだるいけど、気分は、そう悪くもないんだ」
ブラックエンゼルがぷくりと泡を吐く。
彼は少し笑った。
そしてわたしの目を見つめながら言った。
「君が心配してくれるから……」
わたしはとっさに視線をそらした。
「な、何を言っているのよ、そんなこと言えるなら大丈夫よね」
ブラックエンゼルはほんとうにわたしを戸惑わせる。
わたしが戸惑っている様子が面白いのだろうか、彼がくくっと体を震わせ笑っているのが、細かい水の振動で感じられた。
そして饒舌に話し出した。
「前にも言ったと思うけれど、ぼくは君と暮らせてうれしく思ってる。
ぼくは人が作った魚だけれど、でも嫌だと思っていない。
だって自然の中だと、ぼくらは出会うことがなかったから。
ぼくの元になったエンゼルフィッシュでさえそうだ。
エンゼルフィッシュはアマゾンに住み、君たちパールグラミーは東南アジア、出会うことなんてありえなかった。
だけど、水槽の中だとそれが叶う」
君に会えてよかった。
ブラックエンゼルは最後に、聞き漏らしてしまいそうになるほどの小さな声でぽつりと言葉を足した。
わたしは再びブラックエンゼルに視線を戻した。
いつの間にやら彼は、彼のいる位置に近いガラスに寄りかかっていた。
そしてうつらうつらと居眠りしかかっていた。
翌日になると、ブラックエンゼルの体調はさらに悪化していた。
体色はさらに白っぽくなり、何も食べずに空っぽだったお腹は異様に膨れ、うろこが逆立っていた。
わたしは彼に近づこうとした。
彼を元気付けたい。
彼に自分ができる何かをしたい。
けれどブラックエンゼルは胸びれを左右に振り、近づこうとするわたしにストップをかけた。
「……、それ以上は来ないで。
ぼくは何かの病気だ、……移してしまうかも……」
わたしはすぐに言葉を返せなかった。
弱っている彼はとても痛々しかった。
「……グラミーさん、ぼくは君より、高い値段がつけられていること知っているよね……」
こんな時に何が言いたいのだろう。
話をするのもつらいはず、体を労わる方が先なのに。
けれどブラックエンゼルは言葉を続ける。
「……値段の高い魚はね、数が少ない……、生き抜く力がない……、命の弱い魚という意味なんだ……」
「違うわ! きれいで価値のある魚という意味よ」
わたしはブラックエンゼルに近づいた。
彼が病気だと決まった訳ではない、それよりも、彼に言わなければ。
ブラックエンゼルは胸びれを振り、引き返すよう促した。
けれど、わたしが従う気がないことを見て取ると動きを止め、力なく下ろした。
その彼に向かってわたしは言葉を続けた。
「ブラックさんはほんとうにきれいよ。
わたし、ずっと思っていたもの。
わたしの方こそ、あなたに憧れていたの。
ブラックさんに会えてほんとうに良かったわ、
これからもわたしたちは、一緒にここで暮らすのよ」
ブラックエンゼルはごぽりと大きなあぶくを幾つも吐いた。
彼がふっと、笑ったような気がした。
「……ありがとう」
ブラックエンゼルの体は益々白くなっていった。
体が小刻みに震えている。
姿勢を保つことができなくなり、横に体を倒したままになった。
自力で泳ぐのも難しくなり、水流に沿い漂いだした。
えらの動きも、どんどん遅くなっていった。
やがてブラックエンゼルは尾でぴしゃりと水を叩く仕草をした。
わたしが絵理たちに時々やっていたあの仕草だ。
けれど彼の仕草はわたしのとは意味が違う。
生きていたいという彼の思い、命の願いのように感じられた。
そして不意にブラックエンゼルのにおいが強くなった。
彼の体から体液が吹き出したのだ。
やがてブラックエンゼルの体が砂利の上に横たわる。
目は白く濁り、ぴくりとも動かなくなった。
それからしばらくたって、学校から帰って来た絵理が、ブラックエンゼルの亡骸をすくい上げた。
わたしはその様子をじっと見ていた。
彼がいなくなっても、水は彼のにおいを強く残していた。