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絵理の家は、静かな住宅地の中にあった。
二階建ての木造の家屋。
その家に、絵理とお父さんお母さん、3人の人間が住んでいた。
玄関の下駄箱の上に水槽があり、わたしはこの中で暮らしていた。
水槽の中にはわたしの他にもう1匹、別の魚がいた。
その魚はわたしよりも先に水槽に住んでいた。
ペットショップで買われた魚は、酸素と水の入った袋に入れられ運ばれる。
新しい住処となる水槽に移される前に袋ごと水槽に浮かべられる。
水槽の水温に、わたしたちの体がなじむようにするためだ。
わたしも初めて絵理の家に来たとき。水槽に袋のまま浮かべられた。
わたしの眼下に水槽の景色が広がっていた。
ゆらゆらと水草が揺れている。
水草の間に、黒い体の魚の姿がちらりと見えた。
しばらくたつと、わたしは袋から放たれた。
水槽のガラスの外に、絵理とお母さんのうれしそうな顔が見えた。
わたしは用心しながら水槽の中を泳いだ。
水草にいた魚が、わたしの方に近づいてきた。
わたしは細長い胸びれを張り、慎重にその魚を見た。
黒い魚もわたしを見ている。
三角形の尾びれと背びれを広げ、赤いふちどりのある黒い瞳が観察するようにじっと見ている。
「こんにちは」
わたしは思い切って、その魚に声をかけた。
「……こんにちわ」
その魚が、気恥ずかしそうに小さく言った。
黒い体がしなやかに光っている。
とてもきれいな魚だ。
「……君が新しい仲間なんだね。仲良くしよう?
ぼくはブラックエンゼル、よろしく……」
「こちらこそ、わたしは……」
「ああ、ぼくは知ってる、パールグラミーさんだよね」
ブラックエンゼルは瞳を輝かせて言った。
「ぼく、憧れていたんだ。ずっとね、君たちの仲間と暮らしてみたいって思ってた」
ブラックエンゼルが無邪気に言った。
変なことを言う魚だ、彼は。
ブラックエンゼルという魚は、ペットショップで稀に売られていた。
1匹1000円の値段が付けられていた。
1000円の魚が300円の魚に憧れていて、一緒に暮らしたいと思ってたなんて。
わたしは少しばかにされているように感じた。
「そう、じゃあ、願いがかなって良かったわね」
言葉もついつい無愛想にかえしてしまう。
「そうなんだ、ほんとにうれしい」
ブラックエンゼルはそんなわたしの様子にかまわず、うきうきした様子で水槽の中を泳いでいた。
絵理の家には、絵理の家族以外にもいろんな人間が訪れた。
セールス、宅配便。絵理の友だち。
そして黒い服を着た人たち。
初めて家に来た人間は、玄関に置かれている水槽に気づくと、たいてい中を覗いていく。
人の目はわたしの姿を認めると、わたしの泳ぎに合わせて、右に左に動いていった。
その様子はとても面白い。
わたしはわざと水面を跳ねて音を出したり、いつもよりも速く泳いでみたりした。
絵理の友だちは特ににぎやかだった。
水越しに、彼女たちの笑い声が響いてきた。
そうして泳ぐわたしを見ていた人間の目はやがてわたしから離れ、ブラックエンゼルを追いかける。
ブラックエンゼルはわたしのように、水面を跳ねたり、速く泳いだりはしない。
ペースを変えることなく、常にゆっくり優雅に泳いでいる。
ブラックエンゼルの体はほんとうにきれいだった。
絶妙にバランスのとれた体、ひれの形、つややかな黒いうろこは、芸術品を、見ているよう。
人の目が離れたことに寂しさを感じたものの、ブラックエンゼルの美しさにたびたび見とれた。
そして、ブラックエンゼルはとても優しい魚だった。
彼は時折、わたしをじっと見ていることがあった。
そんな時にブラックエンゼルと視線が合うのが恥ずかしかった。
そして、怖かった。