第7話 静かな予兆
旅行から二週間。
街は相変わらず穏やかだった。
紋が疼くこともない。
特訓は続いているが、それも日常の一部になりつつある。
あの日の惨劇が、遠い夢のように思えるほどに。
けれど時折、ふとした瞬間に胸がざわつく。
風が止む一瞬。
音が消える刹那。
何かが近づいているような、説明のつかない違和感。
だが、それはまだ形を持たない。
休みの日の朝、珍しく玲央は早く目を覚ました。
差し込む朝日。
ふと思い浮かぶのは、あの日の言葉。
『パンケーキ、楽しみにしている』
玲央はスマホを手に取り、少し緊張しながら打ち込む。
『今日は予定がありますか?
良ければパンケーキ、食べに行きましょう』
送信ーー。
数分がやけに長い。
既読。
玲央は鼓動が跳ねたのが分かった。
『あぁ。待ち合わせはどこにする?』
『僕が迎えに行きます。それじゃあ後で』
これだけで、今日が特別になる。
神社の石段の下で、玲央は約束より少し早く待って居た。
「待たせたか?」
私服の彩乃は、白いブラウスに淡いスカートを履いている。
「いえ……」
玲央は少し見惚れてしまう。
「今日も、似合ってます」
素直に言うと、彩乃は一瞬目を逸らし、
「そうか」
だが口元は、わずかに緩んでいる。
学校であった話をお互いに話しながら、隣街の駅前に着く。
ようやく順番が呼ばれ店内に入ると、甘い香りで満ちていた。
「……随分、甘そうだな」
「大丈夫です。きっと好きになります」
運ばれてきた皿には、ふわふわの生地に、生クリームと果物が乗ったパンケーキが。
彩乃はフォークを入れ、一口。
「……美味しい」
はっきり弾む声。
「よかった」
彩乃はもう一口、もう一口と美味しそうに食べている。
それはもう、自然に笑っている。
その顔を見られるだけで、玲央の胸が温かくなった。
「また来たいな」
最後の1口を口に運ぶ前に、ぽつりと彩乃が言う。
「……一緒に?」
玲央は思わず聞き返した。
「当然だろう」
案外あっさりだった。
「一人では、きっとつまらない。2人で色んな種類のパンケーキも食べたいからな」
その言葉が、胸に残る。
パンケーキを楽しんでお店を出ると、午後になっていた。
そして神社に帰る道。
「神崎」
「はい?」
「……甘いものは、2人で食べる方が美味しいな」
彩乃の小さな笑み。
「でしょう?」
「また、必ず行こう」
その言葉は、次の約束でもあった。
「今度は、季節限定のでも食べてみようかな?今日は珈琲でしたけど、紅茶も美味しそうでしたね」
玲央は釣られて笑う。
その瞬間、ふと風が止む。
一瞬だけ、妙な静けさを感じた。
だがすぐに人の声が戻る。
玲央も深くは考えなかった。
いや、今は考えたくなかった。
穏やかな休日。
何も起きない一日。
けれど確実に、二人の距離はもう“先輩と後輩”ではなかった。
並んで歩く背中は、自然と近い。
今はただ、甘い余韻だけが残っていた。
2人の男女の距離が縮まった日の夜。
玲央たちが通う高校の屋上に、冷たい風が吹き抜ける。
そこには、二つの影があった。
白夜と陽菜。
その足元には一冊の古びた書物が落ちている。
黒い表紙に刻まれた紋様が、かすかに光っていた。
「……やっと見つけた。これで……」
古びた書物に触れた瞬間、空気が震える。
だが、開かない。
力を込めても、ページは沈黙したまま。
その時ーー。
書物がひとりでに震え、ふわりと浮かび上がる。
白夜の手をすり抜けるように。
ページが風もないのにめくれ、次の瞬間、夜空へ溶けるように消えた。
「……残念だったね」
白夜は古びた書物が消えた夜空を見上げる。
「面白い」
誰かが選ばれる。
白夜はまだ、その時ではないようだ。
だが確実に、運命は動き始めていた。




