第6話 やわらかな距離
恒一とルカの事件から、一週間が経った。
神社は変わらず静かで、学校もいつも通りだ。
だが、彩乃の中だけが、どこか空白を抱えたままだった。
「彩乃、少し出かけてきなさい」
夕食後、祖母がそう言って封筒を差し出した。
「商店街の福引で当たったんだよ。温泉旅館の宿泊券、二枚」
「……温泉?」
「気分転換。たまには羽を伸ばしたらどう?」
祖母の優しい眼差しに、彩乃は静かに頷いた。
彩乃は部屋に戻り、宿泊券を見つめる。
思い浮かんだのは、ひとりの少年だった。
真っ直ぐで、不器用で、あの日誰よりも悔しそうな顔をしていた。
そして翌日の放課後で、いつも通り神社で玲央を特訓していた。
木刀を下ろした玲央に、彩乃は声をかけた。
「神崎。今度、温泉に行かないか」
「……え?」
「祖母に宿泊券をもらったんだ。2枚あるんだが、君が良ければ、どうかなと」
一瞬の沈黙。
驚きと、少しの戸惑いが彩乃には感じられた。
だが玲央は、すぐに笑った。
「行きます。ちょっと、気分転換したかった所でした」
即答だった。
「そうか」
それだけのやり取りなのに、彩乃は胸の奥が少し軽くなった。
お互い少し待ちわびていた、旅行の日。
駅前で待つ玲央は、落ち着かずに改札を見つめていた。
「すまない、遅かっただろうか?」
玲央が振り向いた瞬間、息が止まる。
私服の彩乃は、淡い色のワンピースに、薄手のカーディガンを羽織っていた。
長い髪は下ろされ、いつもの凛とした雰囲気が柔らかい。
「……どうした?」
「い、いや……その……」
玲央は思わず視線を逸らす。
「すごく、似合ってます」
一瞬、彩乃の頬がわずかに染まる。
「ありがとう」
その微笑みは、戦いの場では見せない普通の女の子の顔だった。
変わりゆく景色を眺めながら電車に揺られ、山あいの温泉旅館がある駅に着く。
澄んだ空気。木の匂い。
本当に、戦いを忘れてしまいそうだ。
旅館に着き、まずは露天風呂に浸かると、肩の力が抜けていくのが分かった。
夕暮れの空がゆっくりと夜へ変わる。
何も追ってこない時間。
ただ、湯の温もりが心まで癒してくれる。
夕食は普段食べた事の無い食材が使われた、懐石料理だった。
どれも美味しく、あっという間に無くなってしまう。
彩乃は食後の甘味に少しだけ目を輝かせる。
「……美味しい」
その素直な声に、玲央は笑う。
「甘いの好きなんですね」
ほんの少しの笑顔。
その顔を見られただけで、来てよかったと思えた。
食事を終え、夜の散歩に出かけた後、二組の布団がくっついて置いてあった。
背中合わせの距離。
「神崎」
「はい」
「陽菜……さんは、大切な人なのか?」
それは、彩乃の静かな問いだった。
「……すまない、話したく無ければいい」
玲央は天井を見つめる。
「はい。その為に、僕は紅と契約しました」
少し沈黙が落ちる。
「……そうか」
彩乃の声は穏やかだった。
「君は、私のように大切な人を失わないといいな」
恒一の面影が胸をよぎる。
ルカも、助けられた筈なのに。
「先輩は、1人じゃないですよ。……おやすみなさい」
静かな夜だったが、孤独ではない。
夜も更け、旅館の周りにある商店街で食べ歩きをし、あっという間に夜になる。
再び2人は電車に揺られ、馴染みの駅に着いた。
「送ります」
玲央の言葉に、彩乃は頷く。
並んで歩く住宅街。
旅行の余韻がまだ残っている。
玲央はふと思い出す。
甘味を食べていた彩乃の、柔らかな表情。
「そうだ。陽菜から前に聞いたんですけど、隣街の駅前に、美味しいパンケーキ屋が出来たらしいんです。旅行のお礼で、一緒に行きませんか?」
短い沈黙。
陽菜には悪いが、玲央はもっと彩乃の笑った顔を見たくなってしまった。
「……甘いものか」
小さく呟き、
「いいな。行こう」
柔らかな返事だ。
そして坂道に差しかかった時、彩乃の足がほんの少し揺れる。
玲央は咄嗟に手を伸ばした。
触れる指先。
止まる時間。
どちらも離れようとはしなかった。
嫌ではない。
自然と、手のひらが重なる。
強く握るわけではない。
ただ、お互いの温度を確かめるように。
神社の鳥居が見えてくるまで、そのままだった。
境内の前で、そっと離れる。
「旅館、とても良かったな。ありがとう」
「こちらこそ。誘って頂いて、ありがとうございました」
「パンケーキ、楽しみにしている」
「はい」
彩乃はそのまま、帰ってしまった。
家まで入るのを見届けた玲央は、空を見上げる。
守りたい人がいる。
でも今、隣にいる人も大切だと感じている自分がいる。
それを否定はしない。
確かに、2人の距離は縮まっていた。




