最終話 桜、散らぬ代償
怜央が最後の一文字を書き終えた瞬間、世界が歪んだ。
空が軋み、境界に深い亀裂が走る。
「主、来るぞ」
紅の声がし、怜央はその腕を掴む。
「帰ろう。元の世界へ」
二人は裂け目へ飛び込んだ。
眩い光が2人を襲い、桜の花弁のような粒子が舞う。
引き裂かれる感覚が意識を沈ませた。
それでも怜央は、最後まで手を離さなかった。
春の匂いで目を覚ますと、頬に触れる風が心地よい。
ゆっくり瞼を開けると、満開の桜が広がっていた。
「……怜央?」
聞き慣れた声。
彩乃が、泣きそうな顔で怜央を覗き込んでいた。
「目、覚めたかよ」
蓮が肩を竦める。
小夜もほっと息をついている。
雷牙は泣きながら、蓮に抱き着いていた。
全員、いる。
怜央はゆっくり起き上がるが、胸の奥がきゅっと傷んだ。
「……あれ?」
何か、誰か、大切な存在を探す感覚。
「どうした?」
と蓮が問うが、怜央は首を振る。
「いや……なんか、忘れてる気がして」
彩乃が首を傾げる。
誰も分からない、誰も覚えていない。
陽菜という少女の存在は、世界から消えていた。
書物の代償。
世界を修復する代わりに、一人の存在が、最初からなかったことになった。
写真も、記録も、記憶も、全部消えた。
――ただ一人を除いて。
紅だけが、静かに目を伏せていた。
覚えている。
陽菜が最後に怜央を見つめた瞳を。
「怜央?」と、記憶が戻った瞬間の声を。
消えていった背中を。
だが、紅は何も言わない。
言えば、主はまた背負う、また苦しむ。
それだけは、させない。
紅は小さく息を吐く。
「主」
「ん?」
「……春だな」
怜央は空を見上げる。
「ああ」
桜が一枚、肩に落ちる。
理由のない涙が、ひとしずく零れた。
「……なんでだろ」
自分でも分からない。
でも、確かに何かを失った感覚だけが残っている。
紅は、その横顔を見つめた。
風が吹くき、どこからか、優しい笑い声が聞こえた気がした。
怜央は気づかない。
けれど、桜は今年も満開だった。
境界の外側の、光の無い場所。
時間も、季節もない空間に、一人の少女が立っていた。
陽菜。
彼女だけは、すべてを覚えている。
怜央の声も、彩乃の涙も、蓮の背中も。
最後に抱きしめられた温もりも。
「……よかった」
小さく笑う。
自分が消えたことで、世界が保たれた。
刀剣も、人間も、共に生きている。
それでいい筈なのに、涙が頬を伝う。
「怜央……」
名前を呼ぶが、もう届かない。
それでも。
「幸せになって」
彼女の足元から、静かに光が舞い上がる。
存在そのものが、世界の礎へと還っていく。
最後まで、忘れなかった。
愛した人も、仲間も、春の桜も。
怜央が書いた最後の願い。
「刀剣も、人間も幸せに暮らせる世界」
その願いは叶った。
代償として、彼女の存在を世界から奪って。
桜が散るが、誰も知らない。
その花弁の一枚に、少女の想いが宿っていることを。
春は巡るが、彼女に春は、もう訪れない。
ーーー完ーーー。




