3.剣道部の事情
バシィ、と痛烈な音が道場に響いた。
「一本!」
通る声がそう告げて、試合は終わるはずだった。―――他の人間だったなら。
「こらこらこら!藤見、勝負はもうついただろう!」
ばしばしばしと連続する竹刀の音に、審判を務めていた部長が慌てて止めに入る。だが素手と竹刀ではリーチに差がありすぎる。あっという間に反撃されて、背中を叩かれながら退散しだした。対していた相手は言わずもがな。
けれど野獣は止まらない。鼻息荒く道場の真ん中に仁王立ちして、血走った目で次の得物を見定めている。
多分、相手が中途半端に強かったから腹立たしいのだろう。
しかも力押しではなく技術的な巧さだ。目の前で竹刀を揺らされては逃げられ、相当腹に据えかねたらしい。
「おい高崎、見てないで止めてくれよ!1年、藤見を押さえろ!」
部長の叫びと1年の悲鳴を聞きながら、俺は大きな溜息を吐いて立ち上がった。
一度暴れると手が付けられないが、普段はそれなりに温厚。温厚というより子供なのだと、俺なんかは思っている。
所謂ガキ大将というやつだ。だからそれなりに友達もいるし、先輩からも可愛がられる。酷い目に遭わされて尚そう思えるのはすごいことだと昔から思うのだが、確かに幼馴染みの藤見達郎というのは、不思議に愛嬌のある男だった。
鬼のように暴れていたと思ったら、正気に戻れば怒られるまま道場の隅での正座を許容しもする。勿論、すぐに足が痺れて音を上げるのだけれど。
「バカだな」
揶揄の言葉も、むくれた顔はそのまま受け止める。痺れて感覚のなくなった足をゆっくりと揉み、こちらを無視しようとしているが長い付き合いで耳が傾いているのは知っていた。
「お前が部内で一番強いんだから、そうムキになることないだろうに」
取り成すように言ったが、それは事実だ。誇張でもなんでもない。
達郎は今年、1年ながら個人の部でインターハイに出場している。それまで団体の県3位が最高だったうちで、それは史上初の快挙だった。
けれど夏以降、達郎の機嫌は慢性的に芳しくない。本人は認めないが苛立っているのは明白で、少し思い通りにいかないことがあるとすぐに暴れた。いつもは少し皮肉るだけで済ませてくれる先輩たちも、こう頻繁にあるといつまで許してくれるか分からない。
いい加減、原因を取り除く努力をしてくれと言おうとしたところで、そっぽを向いていた達郎がもごもごと口を動かした。尖らせているので聞き取りづらい。
「なんだって?」
「…ない」
「は?」
「意味ねーよ」
呟いたと同時に寄せられた眉根は深い皺を作り、視線の鋭さが増す。口調は拗ねたようなそれだったが、その表情は硬い。
「部にも全国にも一番強い奴がいなけりゃ、意味がない」
低い声で断言する。見れば解していたはずの手は止まり、自分の足をきつく握り締めている。それは多分悔しさの表れ。
まだ拘っているのかと呆れ―――同じくらい、可哀想だと思った。
休憩に入って、道場の脇にある水飲み場で顔を洗う。この季節、水は大分冷たくなっていたが運動の後には心地好かった。ばしゃばしゃと豪快に洗っていると、水音に交じってうわぁという呟きが聞こえた。
「元気だね、九一」
顔を上げると、嫌そうな顔をした人がこちらに歩いて来るところだった。渡り廊下を進む長身は、寒い寒いと言いながらニットもブレザーも羽織っていない。そりゃあ寒いんじゃないだろうか。
「見城先輩」
「運動部は精が出るねぇ」
こんな寒い中裸足とか、俺絶対無理!と震える真似をしてみせて、見城先輩は脇に置いておいたタオルをこちらに投げてくれた。受け取りながら呆れる。
「先輩だって中学のときはこうだったでしょう」
中学時代のこの人は、剣道部に所属していた。寒くても暑くても道着に裸足。三年間続けたのは同じだと言うのに、何を今更。
「あれは中学生だからできたの。今もうそんな若いことできない」
「たったの二年前ですよ」
「二年も、だよ」
この時期の二年は大きいの、と続ける風情は隠居爺のようで、なんだか滅入ってくる。俺はあと一年経ってもこんな風にはなりたくないし、こんなになっても尚追いかけている達郎が不憫だ。
「稽古、見学していきますか」
そう提案したのは悪戯心というより、嫌がらせの心境に近い。少しは困ればいいと思ったのに、先輩はへら、と笑って首を横に振った。
「ううん、止めとく」
「…達郎、いますよ」
「はは、余計遠慮しとく」
日頃の対応を思ってか、先輩の顔が苦笑に歪んだ。
それはそうだろう。ただでさえ顔を合わせれば試合をしろと騒ぐのに、道着で竹刀を持った達郎の待ち構える道場に行くのは、自殺行為に等しい。
ふと、達郎が今見城先輩に会ったらどうするのだろう、と思った。
いつもみたいに攻撃的にジャレにかかるのか。そうは思えなかった。
多分真剣に頼む気がする。そのときにこの人がどう対応するのか―――定めかねて黙る俺に、見城先輩はどしたの?ときょとんと平和な顔で尋ねた。
人の気も知らないで。
「…達郎、最近機嫌悪いんですよ」
「えー俺の前じゃいつも悪いよ。噛み付いてくるじゃん」
「真面目に」
見城先輩は、軽い。およそ本気というものが感じられない。
人当たりが良くて面倒見も良くて、どの輪に入っても大抵その中心にいる。空気に溶け込むのが巧い人で、融通の利かないところのある自分などは度々羨ましいと思うことがある。
厳しい上下関係のある運動部でも気軽に後輩に話しかけてくれるし、練習に付き合ってくれたりする。
そういうところをいつもは好ましく思っているのに、今は駄目だった。
それがこの人のスタンスでも、達郎のことは知っていてほしいと思った。
「『部にも全国にも一番強い奴がいなけりゃ、意味がない』」
「ん?」
「達郎が言ってました」
先輩の目が瞠られる。
分かりますか。分かるでしょう。
「達郎が剣道を続けているのは、先輩に勝つためですよ」
中学で剣道部に入部してから、ずっと。達郎は先輩に勝ったことがない。達郎だけではない、俺もだ。
だけど俺は他にも勝てない先輩や相手がいて、そこには達郎も含まれる。だから見城先輩ひとりに拘ることはないのだけれど、達郎は違った。
見城先輩にだけ勝っていない。
中学のときは団体戦だったからチーム結果は県4位が最高だったけれど、その中で先輩も達郎も一敗もしなかった。部内では言わずもがな。つまり達郎が唯一土を着けられたのが、今目の前にいる見城先輩ということになる。
それは先輩が中学を卒業するまで続いた。
達郎は高校に入ったときには必ず、と練習を続けた。だというのに見城先輩は高校では剣道部に入らず、辞めてしまった。ふたりが正式に試合をするためにはだから、見城先輩をやる気にさせるより他に手立てがなくなってしまったのだ。
けれど入学して数ヶ月、何度達郎が発破を掛けようと、先輩の腰が上がったことは一度もない。
随分してから、先輩は拘ってるなぁと漏らした。
拘っている。拘りすぎるくらい拘ってるんですよ、先輩。あんたはもう全然振り返りやしないのに。
だから先輩を探して、先輩みたいに強い奴を探して剣道を続けている達郎を見ていると、可哀想になる。
多分達郎の中の見城先輩は、誰よりも強いものになっているのだろう。だからどんな奴と当たっても先輩の方が強く思えて、満足できない。
それを解放できるのは先輩本人だけだ。先輩に勝つことで、達郎は多分その拘りを捨てられる。
今試合をして、それで尚負けたら―――それはもう、仕方のないことだと思うけれど。
困ったねぇと続けた先輩の声はあまり困ったようには聞こえない。ただ宙に彷徨わせた視線は言葉を探していた。
「俺は三年で剣道辞めたけどさ。達郎はもう四年目じゃん。もうあいつの方が強いよ」
「でもまだ勝ってないから、拘っているんだと思います」
「試合なんかしなくても、もうあいつの方が強いって。それは確か」
「なんでそんなこと言えるんですか」
「だって俺、もう剣道に魅力感じないもん」
「―――」
あっさりと言われて、言葉が出なかった。
達郎がどうとか言う以前に、自分が先輩から突き放されたように感じて愕然とした俺に、表情で気付いたのか、先輩は慌てたように付け加える。
「剣道がつまんないんじゃなくてさ。あれ以上やっててももう強くなんねーなって思ったの」
中学の三年間でそんな見切りを付けるのは早いのではないか。思ったが、先輩の口調も表情も断固としたもので、俺は口を挟めずに最後の言葉を聞くしかなかった。
「だから、もうやる気ないよ」
それは残酷な言葉だ。
「達郎はあの頃の俺より強いよ。技術とかじゃなくて、気持ちが」
だからあいつの方が強いんだって。断言した先輩は疑っていないようだけど、俺は打ちのめされた気分だった。
「…そんなこと、言えませんよ」
呟いた俺に、言う必要ないよと先輩は気楽に笑う。
「事実達郎は強いんだから。これからも鍛えてればもっと強くなる。あいつの目標は達成されるじゃない」
それで達郎が納得するなら、どんなに楽か。
けれどこれ以上説得の言葉は出せそうにない。辞めたのも自分の意思なら、達郎に勝とうと思わないのも自分の意思だと言われて、俺に何ができるんだ。
ただ、これを達郎に言うわけにはやっぱりいかない。ということはこれからもしばらくはあの不機嫌と接する日々が続くということで、俺は重い溜息を吐いた。
「そんな暗い顔すんなって。こーいうのは気の持ちようだから、達郎もそのうち自分で納得するよ」
「…ほんと、気軽に言いますよね」
「まー、達郎のお世話は九一の役目だから。…っと、俺バイトあるからそろそろ行くわ」
「はい」
じゃね、と軽く手を挙げて去って行く先輩の背中を見て、もうひとつ溜息を吐く。
思えば最悪の結果だけれど、結果が出ただけ良かったのかもしれない。そこに理由を作って逃げ込まずに済む。
仕方がない。これからはあの不機嫌に正面から向き合ってみるか。そう思ったところで先輩がひょいとこちらを振り返った。
「あ、そーだ。九一」
「はい?」
「達郎のことばっかじゃなくて、お前も頑張れよー」
「…!」
実はこれが一番堪えた。
全く、よく見ている。