2.寮長のお仕事
寮の玄関に、帰って来たことを記録するシートがある。
午後8時。これを確認するのが寮長の仕事だ。
今日もいつも通りに確認して、印のない人間がひとりいることに気付いた。
「えーと、1Cの佐藤…」
人の好さそうな顔を思い浮かべて、首を傾げる。礼儀や時間にはきっちりしていて、門限を破るようなタイプではない。
何かあったと考えるのは早計だろうが、ひとまずこれを報告すべきか心に留めおくべきか、悩み始めたところで良く知る後輩が玄関に姿を現した。
「あー、九一。なぁ、佐藤から連絡とかなかった?」
九一と佐藤は、同じクラスで仲が良かったはずだ。そう思って聞くと、ありました、と硬い口調で答えが返ってきた。中学から知っているが、俺の気安さに比べて九一はずっとこんな感じだ。
「今、電話繋がってるんですけど。一応見城先輩にも伝えておいた方がいいかと思って」
言って、真っ黒な携帯を差し出してくる。その色と口調が何か嫌なものを連れて来たような気がして、俺はおっかなびっくり受け取った。
「もしもし?」
電話の向こうで少し遠い声が佐藤ですと名乗った。ああ無事だったのか早く帰っておいでねと伝えようとしたのに、佐藤の次の言葉に俺は素っ頓狂な声を上げることになった。
「―――はぁ?警察ぅ?」
なんでそんなところにいるわけ。
千尋、と呼んで振り返った途端にぽたぽたと零れた雫に、俺は顔を顰めた。
「お前ね…。髪洗ったんならちゃんと拭けっていつも言ってるだろ」
何度注意しても直らないのは、ここで手を出す自分にも問題があるのではないかと思うことがないでもないが、それで放置すれば風邪を引くのだから、手を出さないわけにはいかない。
それを分かっているのかいないのか、今日も隣人は髪を乾かさずに廊下を歩き、タオルを俺に差し出すのだ。
「たけがやった方が早いんだもん」
悪びれない態度には溜息も出てこない。ほとんど使った跡のない大判のタオルを受け取ると、がしがしと頭を掻き混ぜる。
「いた、痛いって」
「うるさい。風邪ひきたくなかったら大人しくする」
タオルの上から押さえつけると、千尋はまだもごもごと文句を言っていたようだが聞き取れなかった。どうせ言葉にはなっていないのだろう。
なんだかなぁ、と思う。
こんな、自分の髪さえ満足に拭けないような奴が、うちの生徒会長なんだってさ。
誰だよ承認したの、と思わないでもないが、千尋が立候補したことも知らなかった俺はもちろん選挙には無投票で、消極的に賛成したと取られても仕方がない。
ただ、いつも何かに付けて頼ってくる友人に、ある日突然「おれ今日から生徒会長!」と自慢気に言われた身にもなってほしい。
昨日までそんなこと言ってなかったじゃん、と、思ってしまうのは仕方がないだろう。
さっきのことにしたってそうだ。
「そういえば痴漢、捕まえたんだって?」
白いバスタオルを見ながら、先ほどの電話で聞いたことを尋ねてみる。
うちの生徒が駅までに使うバスの路線に痴漢が出るという噂を聞いた千尋が、生徒会の1年を連れて様子見をしに行ったというのだ。結果として痴漢は捕まり、佐藤が警察に引き渡し、事情説明で門限に間に合わなかった。電話越しで佐藤はそう説明した。
「ん?んー、佐藤がね」
関節技できゅっと。ひけらかすわけでもなく呟いて、千尋は目を閉じてしまう。
「佐藤、今まで警察だったんだって。これから帰って来るってさ」
「ふぅん」
答える様子に興味は感じられない。それならどうして痴漢退治なんて思いついたのだろう。
千尋が突拍子もないことを考えるのはいつものことだけれど、興味がなかったら認識すらしなかっただろう。なんで急にそんな活動的になったのか。
思えば思うほど、疑問はひとつのところに戻っていく。
「千尋さぁ、なんで生徒会長になったの?」
なんとなく聞きそびれていた疑問。もっと軽く聞ければよかったのだけど、それには時期を逸していた。でもずっと聞きたかったことでもあるので、これはいい機会だった。
問いかけに、千尋はぱちり、と音を鳴らして大きな目を開いた。
何度か瞬きをする姿に動揺はなくて、逆に聞き返してくる。
「たけもなんで寮長になったの?」
「は?今それ関係ない…」
「なんで?」
じ、と見つめてくる動物みたいな千尋の目は、目力が強いというのだろうか。真っ直ぐ送られる視線に耐えることは難しい。
言ってみれば情けない理由しか持っていなかった俺も、屈して口を開く羽目になった。
「…京先輩に言われたら、断れないでしょ」
口にしてみれば尚情けない。結局断りきれなかったという話なのだから。
京先輩というのは、俺の前の寮長の名前だ。
うちの寮の代替わりは、毎年夏に行われる。3年生が受験の関係で寮を空けることが多くなるのが理由で、過去には1年生が抜擢されたこともあるらしいが、大半は2年にお鉢が回ってくる。
それは教師からの指名制となっているが、実際は寮長の推薦あってのことだ。
1年、寮長の目から見てこれはと思った生徒を後任の寮長に推す。それを教師が承認して、代替わりは行われる。
ちょうど3ヶ月ほど前、俺は指名された。
確かに京先輩には目をかけてもらっていたし、実際世話にもなったし、このぼんやりでルーズな千尋が度々門限破りをするのに目を瞑ってもらったりもした。その辺りを匂わせられれば否やはなく、俺は寮長の席に収まることになった。
そういった諸々を一言にまとめたつもりだったのだが、千尋から返ってきたのはふぅんという気のない反応だった。まぁ、コイツにオーバーリアクションとか最初から望めないんだけど。
分かってんのかな?と思ったところで千尋が顔を上げた。目が合うと、にこりと笑う。
「じゃあおんなじだ」
「は?」
何が。どこに掛かるんだ。脈絡のないセリフ回しはいつものことだけれど、慣れたと言ってもそうそう反応できるものではない。
「おれの理由も、たけと一緒」
続いた言葉でやっと、千尋が自分の質問に答えたのだと分かった。ああそういうこと、と気付いて次の疑問符が浮かぶ頃にはまた目を閉じてしまっていて、その顔は心なしか満足気に見える。
けれど俺はすっかり置いてきぼりを食らわせられた。
俺と一緒?京先輩に頼まれたってわけではないだろう。先輩に生徒会長を決める権限なんてないはずだ。とすると、誰かに頼まれたから、というところが残って―――誰かって、誰だ?
「え、千尋、誰かに頼まれたの?なってくれって?誰?」
頭を揺すってみるが、千尋は唸るだけで閉じた瞼を開ける気配がない。
「誰か、教師?岩下先生とか?」
千尋と仲の良い教師の名前を出してみるが、ゆるゆると首を振るだけで千尋は答えない。
「なぁいしょー」
「え、なんで…ってこら千尋。お前寝ようとしてるだろ!」
「んんー、眠い…」
「バカ、寝るなら自分の部屋で寝ろって。ほら、早く戻って」
千尋には立ったまま寝るという特技がある。しかも起きない。部屋まで運び込んだこともあるくらいで、そうなっては堪らない。俺は慌てて手を動かした。
粗方髪が乾いたのを確認して、千尋の頭からタオルを外す。梳かしたわけではないのでボサボサだが、ひとまず風邪を引くようなことにはならないだろう。
タオルを肩に掛けて送り出すと、おやすみーとふらふら廊下を歩き出す。危なっかしいことこの上ないが、すぐそこだし、まぁそこも大丈夫だろう。
「ちゃんと布団の中に入れよ」
「んー」
部屋に入ってすぐ倒れ込むことのないよう釘を刺すが、それも実際聞こえていたかは怪しい。
全く手間のかかる奴だ。
とはいえ一応の仕事を終えて満足して、俺も自分の部屋に戻ることにした。
結局、千尋の本当の理由を聞き出せなかったことに気付くのは、寝ようとベッドに潜り込んだときだった。