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食堂での食前酒を出すことに関する——

 食堂での食前酒を出すことに関する署名運動というのがあり、主要官庁の次官ら佐官クラスの人間はみな、これに署名しなければならないと匿名の手紙がやってきたので、きれいに折り畳んで火をつけて灰皿に捨てた。共和制が採用されて以来、何事も署名で決めることが流行していた。たいていのものはつまらないものだが、なかには独立運動などがあって、憲兵本部ではこの手の署名は絶対にしないようにと通達があった。

 カラヴァッジョは近所のカフェに昼食の配達を頼んでいた。その日、持ち込まれたのは燻製サケと玉ねぎのサンドイッチと魔法瓶に入ったコーヒーで、左手が不自由になると、ナイフとフォークを使わないで食べることのできるものに嗜好が変わっていった。ただ、撃たれて以来、食べる量がひどく少なくなり、医者からはもっと栄養のあるものを食べるように言われ、缶入りの粉末栄養スープを貰ったが、ひと口飲んだだけでゴミ箱に捨ててしまった。

 肉がダメなら、とニッコライ博士が言った。「魚を食べなさい」

「もちろんです。この通り、今日のサンドイッチにはサケの燻製が挟まっています」

「わたしが言っているのはアクアパッツァのような、もっとしっかりした魚料理です」

 この心配性の医学博士はときどきカラヴァッジョ大佐の執務室にやってきて、彼の食事について、いろいろと忠告をしてきていた。前時代風の顎鬚とひらひらしたネクタイをした、痩せた老人だが、カラヴァッジョの健康を心配する数少ない人物だった(他の人びとは彼が〈叔父〉たちの報復で殺されないか心配していた)。

「どうにも時間がないんです。先生」

「栄養スープは?」

「捨てました」

「あれは非常によいスープなんですよ? 足りない栄養を補える絶妙の配合がされた新時代のスープです」

 カラヴァッジョは苦笑いをした。この老人と話していると自分が小学生になったような気がした。

「ですが、あれはひどくまずいんですよ。博士はご自分で飲んだことはありますか?」

「もちろん飲んでいますし、続けて飲んでいます。そのおかげでわたしはこの通り、健康です」

「目の下に隈がありますよ」

「わたしのことはいいのです。きちんと毎月血液検査をしている人間にはあのスープは必要ないのです。ですが、あなたは違います。ちゃんと食べていないでしょう? あなたの命を奪うのは悪漢の銃弾だけとは限りません。ご家族のことを考えませんと」

「両親はもう亡くなっていますし、結婚はしていません」

「そういうことではありません。神と対峙するとき、人間は精いっぱいの努力ののちに対峙すべきなのです」

「この国では〈翡翠〉で自分の内臓をボロボロにしていく連中が大勢います」

「ええ。わたしの医院でも〈翡翠〉の急性中毒で運ばれてくる人が増えました。いくら副作用が軽いとは言っても、他の麻薬と比較して軽いのであって、純粋にひとつの薬剤として考えれば、副作用は馬鹿にならないのです。それをわたしは何度もラジオで訴えてきましたが、まったくダメでした。ある、非常に高名な家柄の青年が馴れ馴れしくわたしと肩を組みながら、なんと言ったと思います? 『でも、先生。今が楽しめないなら生きている意味がないじゃないですか』と! 彼はわたしをおちょくりながら言いましたよ。ですが、楽しめない今を乗り越えてこそ、人生の滋味を楽しめるものではありませんか? 当今は若者だけでなく、それなりの齢をとった方までもが、この破滅的な享楽主義に堕ちていきます」

「あんなスープを売るのも堕落ですよ。あのスープはどこで手に入れたんですか?」

「隣の〈頂の洞〉村の病院からです」

「院長がどんな人物かご存じですか?」

「デ・カルロ博士ですか? 医者の鑑のような人物です。村民からは尊敬されていて——」

「デ・カルロは〈叔父〉ですよ」

「ご冗談を。〈叔父〉とは犯罪者じゃないですか。本物の医者で、それも寒村で住民を見捨てずに院長をしている人物が〈叔父〉なわけがありませんよ」

「ジュセッペ・シーカという名前をご存じですか?」

「さあ。きいたことがありません」

「九歳の少年です。彼はデ・カルロ病院で治療を受けた後、その日の深夜に死亡しました」

「どんなに優れた医者でも、全ての命は救えませんよ」

「父親のカルミネ・シーカはある事件の証人だったんですよ。すぐに証言をしないと言ってきました。シーカ氏にはまだ三人の息子と四人の娘が〈頂の洞〉村に住んでいましたからね」

「ただの偶然です。そんな誹謗中傷が許される人物ではありません」

「デ・カルロは人殺し、それも子どもを殺した犯罪者です」

 ニッコライ博士は赫怒して立ち上がった。

「結構です。わたしの忠告をききたくないなら、はっきりそう言えば、いいでしょう! それをデ・カルロ博士のような人物を貶めるようなことを口にして、わたしの気を悪くさせて厄介払いさせようだなんて、まったく男らしくないことです!」

 この生き方をしていれば、こんなことはいくらでもあった。人びとは〈叔父〉を名指しして非難するところまでは行っていたが、自分に近い〈叔父〉の罪を直視できるところまでは来ていなかった。

 だから、カラヴァッジョは本心を告げることにした。

「あなたがわたしの体のことを気遣ってくれたことは忘れません。ですが、〈叔父〉の肩を持ちすぎて、取り返しのつかないところにいかないでください。現在、デ・カルロは抗争の渦中にいる人物です」

「失礼します!」

 そう言って、ニッコライ博士は扉を乱暴に閉めた。

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