カラヴァッジョ大佐は自分の執務室に——
カラヴァッジョ大佐は自分の執務室に陸軍用の折り畳みベッドを置いた。〈叔父〉が〈ギャング〉を殺した以上、抗争は避けられず、全憲兵がこれにあたらなければならない。また、抗争が起きれば、来客が増える。ほとんどは何の価値もない知りたがり屋で、捜査に費やせる貴重な時間を大佐から奪っていく。彼はその手の人間を丁寧にあしらえるほど器用ではないので、たいていの来客は彼が思いあがった傲慢な若造という印象を得て帰っていく。
だが、大佐はそんな人間に好かれたいと思っていないのだから、勝手にすればいいというわけだ。
雨が降っていた。霧雨で煙る広場の向こうでは劇場のシルエットが浮かび上がり、丸屋根や塔、入口のライオン像まで見分けることができた。体を悪くしてから、彼が見るもののほとんどは、この劇場だった。もう犯人を追いかけて、サボテンを左右にかわしながら荒野を走ることはできない。憲兵のルールではカラヴァッジョ大佐は退役させられるはずだったが、共和国で敵の将軍を逮捕したことと戦車を爆破したこと、自身が瀕死の重傷を負ったことで英雄視され、その不快な立場を逆に利用して、摘発隊を結成できた。彼は半身を失ったが、彼の手には〈叔父〉の心臓が握られている。あと少しだ。
内線電話が鳴った。
「はい」
「お客さまがおいでです」
「名前はうかがっているのか」
「はい。ただ、その」
「何か?」
「名前というより、職名でしょうか。清書人といえば、大佐殿はお分かりになると」
やってきた清書人は洋風の背広に山高帽をかぶっていて、以前、会ったときよりも健康そうであった。
「〈翡翠〉をやめたんですよ」清書人は恥ずかしそうに頬をかいた。「禁断症状でなかなか痛い目を見ましたが、わたしも人並みに命が惜しくなったので」
「沙国を追い出されたのですか?」
「ええ。共和制は外国人に冷たいものです。君主制度は外国人に寛容でした。様々な国の人間が自国に住み、国王陛下万歳を叫べば、世界の王になれた気がしますからね」
「君主制度は惨めではあるが合理的な手法を生み出すことにかけては天才的でした」
「権威は自身で他人を従えるよりも、他人に他人を従わせることのほうが容易です」
「今も清書人を?」
「いえ。何もしていません。することと言ったら、新聞を読むことくらいです。あなたが本当に〈叔父〉を根こそぎにできるかどうかを予想するのが、いまのわたしの最後の楽しみです」
大佐は笑った。
「〈翡翠〉をやめた甲斐があったと思っていただけますよ。あッ」
痛みが左の指先から麻痺した前腕をじいんと広がった。
「かなり痛みますか?」
「ときどき」
「アンジェロ・アッリーゴがあなたを撃つとは思いませんでしたよ」
「撃ったのは通訳の楊でした。アンジェロはむしろわたしの命を救いました」
「わたしが長生きするもうひとつの理由です」
「アンジェロ・アッリーゴが?」
「彼が新たな権力を築くと言っていたことは覚えていますね」
「ええ」
「現在、彼はそれを完成させたと思いますか?」
「いいえ」
「即答ですか」
「自信があります。アンジェロ・アッリーゴは〈ギャング〉の中心人物ですが、実際のところ、〈ギャング〉は〈叔父〉が派手に暮らしているだけに過ぎません。若者を惹きつける力はありますが、それだけです。アンジェロ・アッリーゴの言う、新しい権力には程遠いでしょうね」
「アンジェロは〈叔父〉のように暮らす〈ギャング〉です。他のボスたちが高級スーツに身を包み、ダイヤモンドの指輪を見せびらかすのに対し、アンジェロはどこにいるのかも分からない」
「既存の〈叔父〉でもない権力からは程遠い」
清書人が顔を崩した。灰汁でも落とせそうにない微笑みはまだ健在だった。
「ときどき、わたしは気晴らしのつもりで沙国の言葉を清書します。清書はわたしの精神にいい影響を与えてくれます。まあ、〈翡翠〉ほどではないですが。書を通じて心を澄ませると、なんだか、アンジェロの嘆きがきこえてくる気がするのですよ。あなたほど敵が明確に見えていない。偽りの力を手に入れても、それを使う機会が分からない」
「彼は現在、父親と抗争状態に陥りつつある。もし、アンジェロ・アッリーゴに会ったら言っておいてください。親子喧嘩を仲裁するほど暇ではないが、望むならいつでも行きます」
「親と子が殺し合う。恐ろしいことです。ですが、避けられないことでもあります。古いものと新しいものが入れ替わりつつあるこの時代にふさわしい悲劇です。わたしたちは結局、古王国人だから、古き良き時代を妄想し、古いものは美しいものと無条件に思い込みます。実際はそんなことはないのでしょうが、しかし、なかには本当に美しいものもあるのです。奇跡的に」
「どんなものです?」
「教会です。どの聖人を名前に使っていたか、ちょっと思い出せませんが、街道から教会の敷地の入り口まで手入れをした葡萄棚があって、少し粗野で無骨な感じがする、華美ではない教会には野菜の畑とブドウ畑があります。司祭がいたころは儀式に使うブドウ酒をその畑から用意できたということです」
「聖フランツィウス教会ですか?」
「そうかもしれない」
「ピエトロ・テスタという若者が管理しているかもしれません」
「ん? ああ、そうだ。思い出した。そう、驚いたことにあそこを管理しているのはあの首切り人でした。まったく奇遇なこともあるものです」
「彼は幸福そうでしたか?」
「いえ」清書人は悲しげに首をふった。「絶望していました。国のサッカースタジアム建設候補地にされて、教会の取り壊しが決まったのです」
「そんな……」
カラヴァッジョの表情を読んだ清書人は嬉しそうにうなづきながら言った。
「結局、わたしたちは古王国人なのですよ」