南麟帝本紀 第1章 第3話
玖月拾陸日(承前)
その晩、ノルディ・サン・クラリスが公館を訪れた。人的被害の状況がまとまったため、自ら報告に来たのだった。アレクシスとキャラが応接室で出迎えた。
「結果ですが、死者はゼロ。遺体もありませんから間違い無いでしょう」クラリスの最初の報告にキャラはほっと息を吐いた。
「重傷患者は三、そのうち二人は火災による火傷、もう一人は見張りをしていた者で、
腹を矢で射られたのですが、一命は取り留めました。しかしまだ意識は戻らないそうです。軽傷患者は二十。避難の際に転んだり打ちつけたりした者がほとんどで、捻挫、打撲、擦り傷などです」
「妊娠していた者が二、三人いたね?」
「はい。三人の妊婦は皆無事でした」
「それは良かった。さあキャラ、安心しただろう、今日はもう寝みなさい。昨日もあまり寝れていないんだろう?」
「わかりました。ああ、でも良かったわ。明日はその患者さんたちのお見舞いに行ってくるわ」
「それはいいね。患者たちも喜ぶだろう」
おやすみなさい、と云ってキャラは応接室を出た。
「姫様も公女としての自覚が出てきたようですな」
「もう十三だから、もっとしっかりしてもらわないと。ところで、明日レジーヌ伯が着いたら、私たちはメルティアに戻ろうかと思っているんだけど、あなたはどうします?」
「もちろんお供しますよ。お二人が帰られるなら親衛隊がここにいても意味がありません」
「ハハッ、確かにその通りだ。では明後日引継ぎなどを済ませて、拾玖日朝にスーサを発つのでそのつもりで」
「承知しました」
玖月拾漆日
「え、明後日ですか⁉︎ なんでそんなに急に…」
公都メルティアへの帰還がキャラらに伝えられたのは、朝食後にお茶を飲んでいる時だった。
男爵の娘とはいえ、現在はただの女官に過ぎないカティは本来公爵家の者と共に食卓につくことは許されていないが、公館ではキャラのわがままが通り、お茶を共にすることがあった。この日もカティは同席していた。
「別に急ではないさ。元々昨日帰る予定だったんだから」
「まだライアスが見つかってもいないのに」
「そのことなんだがね。昨日は何人かの護民官まで動員しても見つからなかったんだろう? もうスーサにはいないんじゃないかな」
「私だけ残ってでも…」
「そうもいくまい。プトレマイオス伯爵も待っていると思うよ」
「うー、やっぱりそうかなぁ」
ジークムント・セバスティアン・ディル・プトレマイオス伯爵は、キャラの人文系の家庭教師である。御年七十にして体力も声の大きさも衰えず、相手が公爵令嬢であっても容赦がなく、講義中によそ見でもしようものなら大きな叱責の声と十分以上続く小言に見舞われる。公宮の中でキャラが最も苦手とする人である。
「これ以上休んだら何を云われるか解らないぞ」
「それにライアスさんとはまた会う約束をされているんでしょう」
カティが口を挟んだ。
「まぁ、それはそうだけど…」
「ほう、それは初耳だね」
アレクシスがジロリと睨む。キャラは素直にあらましを話した。いずれにせよ兄の協力も必要と思っていたからだ。
「そんな勝手な約束を…。大体その時期にスーサに来られるかどうかも判らないのに」
「まぁ、それはその時に、ね」
「ところで」カティがあることに気付いて口を開く。「明後日って、マーサ一座の公演の日では…」
「あ、そうだ!」
旅芸団マーサ一座は、次に赴く街の予定もあるためスーサには長居できず、明後日の一日だけスーサで興行を行うこととした。今日一座を訪れたカティがその情報を持ち帰っていた。
「兄様、お願い! その公演だけ観させて! ライアスもひょっこり出てくるかもしれないし!」
アレクシスはしばらく腕を組んで考えていたが、程なくしてため息を吐くと腕を解いて云った。
「明後日拾玖日の昼にスーサを発つ。その午前中にしたい事があるなら、明日のうちに出発の準備を済ませておくように」
「やった、ありがとう、兄様!」
公人に徹しようとしてはいるが、結局は妹に甘いアレクシスであった。
玖月拾捌日
レジーヌ伯爵の率いる増援隊の全軍が到着したのは午前が間もなく終わる頃だった。朝にレジーヌ伯爵と副官ほか数名のみ先にスーサに入市し、兵士たちは西門の外に天幕を張って野営することとした。全軍を迎えるほどスーサは広くない。
キャラは伯爵に挨拶だけするとカティを伴って市街へ向かった。またもや護衛としてセルディが同行することになったが、また別の者を付けられるよりはと、今回は素直に受け入れた。そして三人で聞き込みを続けたが、ライアスの行方は杳として掴めなかった。
この日、モリスの意識が戻ったとの報せがディケンズ防衛隊長の元に届いた。北狄らしき軍が迫っているのを知り、最初に半鐘を鳴らしていた者だ。矢に胸を貫かれ、重傷を負い、診療所で今まで意識を失っていたのである。
まだ十分に話せる程には至っていないが、命に別状はないとの診断結果を聞き、ディケンズは翌日に部下の見舞いと事情の聴き取りを行うこととした。モリスも防衛隊の一員である。
玖月拾玖日
マーサ一座の小屋の中はすでに満杯であった。俄か拵えの小屋だから、百人も入れば一杯になってしまう。特に今回は日程が短縮されたため、普段以上に一回の公演に人が集まっていた。
公演は午前と午後の二回行うことになっており、午前の公演は半数以上が子供たちであった。一番前のものは地べたにむしろを敷いただけのところに座り、その後ろには移動の際には荷を入れる木箱を椅子がわりにして座っている。さらに一段高いところに貴賓席が設けられ、キャラとカティはその席についていた。
「アレク様も来られれば良かったですね」
「兄様はもう何回か観てるからね、他の一座だけど。でもほんと、残念だったわねぇ、カティ。一緒に観たかったのにねぇ」
「べ、別に私はキャラ様と観られれば。そうそう、アンナ様たちは午後の回にいらっしゃるそうですよ」
「アンナたちは元々スーサ勤めだから、公都に帰る必要がないからね」
あからさまに話題を変えたカティに付き合ってキャラは答えた。
そしてマーサの挨拶を皮切りに、公演が始まった。
数々の曲芸や大道芸、大掛かりな手品や刀子投げ、そして歌に踊りと演目は多彩だった。殊にロクサーヌと云う女性歌手の歌は素晴らしく、観客全てを魅了した。
舞台の袖から低く馬のいななきが聞こえた時には、息を飲んで登場を待ったが、仔馬に乗っていたのはもっと若い、と云うか幼い男の子だった。まだそれほど馬に慣れていないのが明らかで、曲乗りの内容を変更したらしい。何度も大げさに落馬したり、滑稽な仕草で馬を追いかけたりするのを観て、観客は大笑いをしていた。マーサの目論見は成功したらしい。
しかし、キャラとキャラの心情を慮ったカティは心からは笑えなかった。
そして、再びマーサの挨拶と破れんばかりの拍手で公演が終わるまで、ライアスが現れることはなかった。
「カティは何が一番面白かった?」
「どれも素晴らしい芸で、とても選べません。でもロクサーヌさんの歌はとても素敵でしたね」
「うん、これからマーサ一座の名前は広く知れ渡るんじゃないかしら」
あえて、二人ともライアスのことは口に出さなかったが、公館に入る直前にキャラが云った。
「あとは二年後を待つだけだわ」
「きっとその時に会えますよ。私にも紹介してくださいね」
しかしカティは来年には十五になる。女官勤めが終わり、親元に戻り社交界デビューに向けて今度は外面を磨くこととなる。
別に会おうと思えばいつでも会えるしね。キャラは自分にそう云い聞かせているが、その日のことを考えると寂しさを感じるのは否めない。
軽い昼食を済ませると、二人は車上の人となり、公都メルティアへの途についた。
キャラたちがスーサを発って間もなく、ディケンズはモリスが療養している診療所へ出向いた。重傷者のモリスは奥の一人部屋で寝台に寝ていたが、隊長が来たと知って上体を起こそうとして呻いた。
「ばか、そのまま寝てろ。胸をやられてるんだろうが」
「すいません、情けない限りです」
「任を果たそうとして負った傷だ、謝る必要はない。しかし、それにしてもよく死なずにすんだな。普段から鍛えていたのは伊達ではなかったようだな」
「はい、普段のご指導の賜物です」
「また鍛えてやるから早く治せ」
「こんな傷、さっさと治しますよ。何しろまだ若いですから」二十になったばかりのモリスは笑おうとして激しく咽せた。
「いってぇー」
「今日はこの辺にしてまた出直そう」
「あ、一つだけ教えてください。おれが射たれた後、誰かが半鐘を鳴らしてたみたいですが、そいつはどうなりました? 子供みたいだったけど」
「いや、聞いとらんな」
「その半鐘も途中で途切れたような気がして、でもおれが気を失ったからそう思っただけかもしれないし」
「誰かその者を見なかったか、後で聞いておこう。お前はとにかく治せ」
「はい。わざわざお見舞いありがとうございます」
多少なりとも傷ついた市壁の修復や堀代わりの川の整備、斥候の報告をまとめて公都に送る手配など、まだまだすべきことは多い。モリスが気にしていた者にかける時間はあまりなく、他の雑事に紛れてしまった。部下におざなりに指示して自分の仕事に没頭した。
ディケンズは、ライアスのことを知らされていなかった。事前に聞いてたらもう少し気にかけていたはずだが、モリスの記憶が曖昧なこともあり、結局公都への報告書には半鐘を鳴らした(らしい)少年のことは記されなかった。
南麟帝本紀 第1章 完