序章
蒼穹の下、若草の明るい緑が連なる丘を、一騎の騎馬が駆け抜けていた。
シミひとつない白馬に跨るのは、歳の頃十二、三の少女。あざやかな金髪に縁取られた白いかんばせや緑晶石の瞳は、生気に満ちている。高価な絹糸をふんだんに使い、要所に金糸や銀糸まで使っている服を着ているところや、意匠を凝らした鞍を見れば、いずれかの高貴な家の息女であろうと知れる。しかしながら、容姿端麗であることは間違いないが、明朗闊達な印象がより強いのは否めない。いわゆる深窓のご令嬢という成句は彼女には似合わなかった。
丘の頂にはみごとな枝ぶりに無数の葉を繁らせた一本の欅が聳えている。
白馬が速度を落としてその欅の許まで近づいた時――
馬の面前に何か棒状の物が突然現れ、驚いた馬はいきなり竿立ち、いなないた。
キャッと短い悲鳴をあげて少女は馬の首にしがみつく。
と、頭上から「ウワワッ!」と声がしたかと思うと、何かしら黒っぽい物体が地に落ちた。
「痛っ」
なんとか馬を落ち着かせた少女が見ると、一人の少年が草の上に座って腰のあたりをさすっている。黒い髪と日に焼けた小麦色の肌、そして黒一色の服を着ていた。
「ちょっと!危ないじゃない、もう少しで落馬するところだったわ!何してんの、こんなところで。っていうかあなた誰?」
興奮冷めやらぬ少女は一気にまくし立てた。
「んだよ、せっかく気持ちよく寝てたのに」
立ち上がった少年は歳も背格好も少女と同じくらいのようだ。粗末ながらもこざっぱりとした服と古びたサンダルを身につけている。
少女は白馬から下りながら尋ねた。「もしかして枝の上で寝てたの?」
「草の上で寝ると、虫に喰われたり鼻とか口の中に入られたりするからな」
どうやら枝の上で昼寝をしていたところ、馬のいななきと少女の悲鳴に驚いてバランスを崩してしまったようだ。
一方、少女の方も馬を驚かせたのはこの少年の腕だということを悟った。改めて少年の腕を見た少女は声を上げた。
「大変! 手、怪我したんじゃない?」
少年の左手の甲が赤くなっているのに気づいたのだ。
「ああ、これね」少年は手を上げて少女の眼前に甲を見せた。「前から、びっくりしたり、思いっきり走ったりした後とか、心臓がドキドキしているときに赤くなるんだ」
「稲妻みたいな形ね」
見ているうちにだんだん色が薄くなってきた。少年の興奮が収まってきたということなのだろう。
「それにしても、よく木の上なんかで眠れるわね」
「そんなの、旅の間は普通だし」
「やっぱりスーサの子じゃないのね。見たことないもの。誰?」
少年は少女を頭から足までジロジロと見回し、「なんだ、貴族か」と呟いた。
「なんだってなに?」
「貴族だったら旅芸団を見になんか来ないだろう」
「あなた、旅芸団の子なの?」
少年は頷いた。そしてふと気付いたように、「スーサの子じゃないって、おまえ貴族のくせに町の子供全部知ってるのか?」
「全部ってわけじゃないけど、同じくらいの子は二十人もいないもの」
「ずっとここに住んでるのか?」
「普段は公都。夏だけスーサに来るのよ。そのときにみんなと遊ぶの」
「平民の子供と?」
「平民とか関係ないわ。みんな友達よ」
少年がそれまで経巡って来た町や村では、貴族と平民が一緒に遊んでいる姿など有り得なかった。多分貴族と云っても余程下流なんだろうと納得することにした。
「ねえ、それより、旅芸団ならあちこち廻ってるんだよね?」
「まあね」
「話聞かせてよ」
「なんの?」
「あんたが行ったいろいろなところのよ」
「ある山の洞窟には魔法使いが住んでる、とかそういうこと?」
「そう! そう!」
少女は目を輝かせた。
「いいけど」折しも村から聞こえてきた鐘の音に耳を傾けながら少年は云った。「五刻鐘が鳴っちまったから戻らないと」
「えーっ」少女は一気に落胆してがっくりとうなだれた。だがすぐにばっと顔を上げ、「明日――」すがるような目をして云った。「明日は来られる?」
「大丈夫だと思う。いつも後三刻くらいから休憩入るから」
少女はぱっと顔を輝かせた。
「じゃあさ、明日それくらいの時間にここに来るから、いろいろ聞かせてよ」
「いいよ。けど――」
「けど?」
ちょっと不安顔になった少女に、少年はニヤッと笑いかけ、
「今度は驚かせるのは無しだぜ」
「お互い様よ」
少女は微笑んでから、ふと気付いて云った。「そういえば、名前をまだ聞いてなかったね。あたしはキャラ」
「おれは――」云いながらライアスは上衣の裾を見せた。文字が縫い取ってある。
「ライアス、ね」
ルミナル川が陽光を反射させながら右から左へ緩やかに流れている。向こう岸――スーサ側――には川に沿って市壁が立てられている。幅およそ十ミールの川に、城門を兼ねた橋が今は下ろされている。二人を乗せてきた白馬はその手前で止まった。
その背から下りた少年に、
「明日必ずよ」と馬上から少女が声をかけた。
「おう。じゃーな」
軽く手を上げてライアスは橋を渡り、番兵に手形を見せて街の中に入っていった。
「明日が楽しみだねぇ」少女は愛馬の耳元で云い、「もう少し走ろうか」
手綱を引いて馬の向きを変えると、白馬は勢いよく走り出した。
「昨日話した、でかい亀が住んでいる島のさらに西の方には、メイザーという山が有ってさ」
ライアスは言葉を切って、砂糖菓子を口に放り込んだ。
キャラが感嘆して云うところの『素晴らしき世界』に関するライアスの語りは、二日目に入っていた。昨日はキャラがなかなか館を脱け出せず、半刻しか話せなかったのだ。
桜の木の下の草地に座り込んだ二人の前には籠に盛られた砂糖菓子や飴細工と竹製の水筒が置かれている。それらはもちろんキャラが館から持ち出したものだ。昨日、砂糖菓子を初めて食べたライアスは感動して、「これ、旅芸団のヤツらにも食わせてやりたいな」
と思わず口にしたのを聞いたキャラが、
「じゃあ明日、もう少し持ってくるよ」と云った結果、今日はかなりの量が籠に山盛りになっていた。
「そのメイザー山には魔法使いが居るって噂が有ったんだ。まあ、それも昔の話で、おれも行ったことなくて団長の弟から聞いた話なんだけど、麓の村の、洪水で流された橋を一晩で直したとか、逆に村の子供を掠ったとか、いろんな話があるんだ」
「その魔法使いってまだ生きてるの?」
「生きてるっていう人ももう死んだって云う人もいるらしい。とにかく、もう五十年くらい誰も見たことがないってことだから、どちらにしろパンディラにはもう魔法使いはいないんじゃないかな」
「他の大陸に行ったってこと?」
世界にはパンディラの他に少なくとも二つの大陸が在るということは、キャラも教わっている。
「ピエトロ――その団長の弟だけど――は、えーとゼツメツ?」
ライアスはちょっと首を傾げ、言葉に自信をなくして云い換えた。「みんな死んじゃった人種だって云ってた」
そう云って、ライアスは飴細工に手を伸ばした。クジラに同じくらいの大きさのイカが絡み付いているという、あまり類を見ない情景が精密に再現されている。
「……これってキャラんちの人が作ったの?」
「兄様が出掛けた時には必ずお土産と云っていろんなモノを買ってくるの。兄様は特にそういう変わったのが好きなんだ」
兄妹揃ってヘンな貴族だとライアスは思ったが、口には出さないでおいた。
「これってクジラって云うんでしょ。海に住んでいるから大きくなったって。ねえねえ」キャラは身をのりだして尋ねた。「海って行ったことあるの? すごく大きくて広いんでしょ」
「ただ広いなんてものじゃないよ」遠くを見る目をしてライアスは云った。「初めて見た時は、ただ大きいってことだけで、なんて云うか、胸がいっぱいになったってのかな」
つまり感動したということのようだ。
「いいなあ。あたしも見てみたいなあ」
「行ってみたほうがいいよ」
「簡単に云わないで!」
ライアスの何気ない言葉に、キャラは強い語気で放つように云った。そして俯くと、呟くように話す。
「あたしはそんなに簡単に旅なんかできないの。頼んで頼んで頼んだら、優しいお父様は許してくれるかもしれないけど、その時には二十人か三十人くらいは同行しなきゃいけないことになるわ。あたしのわがままだけでそれだけの人達に迷惑はかけられない。でもあたし一人じゃ何もできないし。あたしがパルキアを出る時は、きっと政略結婚で嫁ぐ時だけなのよ」
その慨嘆には少なからぬ思い込みもあったが、十三歳にして自らの立場を認識し、受け入れていこうとしている姿があった。
「連れてってやるよ」
「え?」
キャラは瞳を潤ませた顔を上げてライアスの顔を見た。
「おれが、海を見せに、連れてってやるよ」
ライアスは心に浮かんだものをそのまま言葉に変換した。
「ほんと?」
「もちろん、今すぐにってわけにはいかないけど、そうだな、あと一年半と少しすれば十五になるから、そうすれば旅芸団も休みがもらえるようになるし、他の旅芸団に修行に行くことも多いから、その時は一旦今のピートホーク一座から離れるから、新しいところに行く前にスーサに寄ってもいいし」
考え考えしながら話すライアスの横顔を見つめるキャラの顔が、だんだん明るくなってきた。空を覆っていた雨雲が割れて、晴れ間が覗いてくる様のようだ。
「ちょうど二年後の今日、ここでまた会おうぜ」
キャラは今や快晴の表情だ。
「うん!じゃ誓いをたてよう」
「誓いってなに?」
「……知らないの?」
「知らない。聞いたこともないな。何?」
「んーと、しようと決めたことを必ずする、ってことかな」
キャラは考えながら言葉を紡ぐ。
「約束のこと? なんだ、そんなの当たり前じゃん?」
「そうだけど、守らない人もいるの。さ、いいから右手をこうやって」
キャラはライアスの正面に立って、掌を前に向けた右手を胸前に立てた。ライアスが同様にすると、掌同士を合わせる。
「私の後に続けて同じように云うの。いい?」
「わかったよ」
「正義と審判の女神スワディーバに誓います。はい」
「正義と審判の女神スワヂーザ?に誓います」
「スワディーバに誓います」
「スワディーバに誓います」
「私キャリアンティーヌ・ディア・メルリースと」
と云ってからキャラはライアスを指した。ライアスは察して文句を続けた。
「私ライアスは」
「今ここに交わせし約束を守ることを」
ライアスがつっかえながら復唱する。
「もし守らざりし時は、いかなるご神罰をも厭いません」
ライアスが復唱すると、掌をパンと打ちつけてからはなした。
「なんだよ、ゴシンバツって」
「神様の罰よ。スワディーバ様は厳しい神様だから、約束破ったらきっと大変なことが起きるよ」
ライアスは「メルリース」って最近どこかで聞いたな、と考えていたが、そのとき異変を察知した。キャラの肩越しに草原の向こうに目を凝らす。
「どうしたの?」
キャラも振り向いてライアスの視線の先を探したが、先に耳が異変を感じ取った。微かに遠雷のような、地鳴りのような轟きがしていないか。
ライアスはしゃがみこむと大地に耳を当てた。
ドロドロドロ…
地中からは重くて低い音が、地表からは鈍い振動が感じられた。
がば、と身を起こしたライアスは、「キャラ、急いで町に戻れるよう支度して」と云いながら、桜の樹に攀じ登った。あっという間に地上5ミールほどに達すると、草原の向こうを見はるかす。
草原とは云っても平らな地面が続いているわけではない。大小の起伏があり、小高い丘が有ったり窪地が有ったりする。
そして今、二つ向こうの丘の稜線に黒っぽい影が続々と現れてきた。まるで丘の中からわいて出てくるような錯覚をライアスは覚えた。
「あれは……」思わず呟いた。「まさか」
「ライアス、いいよ!」
キャラが準備を整え、樹上に声をかけた。ライアスはほとんど飛び降りるようにして地上に立った。
「騎馬隊だ!かなりの数だ」
「騎馬隊? でも北狄は五十年くらい前に討伐したはず…」
云いながらキャラは素早く愛馬に飛び乗った。鞍の上に伸び上がって丘の方を見てみると、丘を黒い影が覆っていくのが見えた。
「ライアス! 早く乗って」
ライアスも身軽にキャラの後ろに飛び乗るや否や「行くよ!」のキャラの声に、白馬は全速力で走り出した。
「あれって、敵じゃない可能性ってあると思う?」
キャラが後ろを振り返って云う。
「いや、ほとんどないだろうな。敵じゃなかったら、あんな大勢であんな速さで来る必要が無いよ」
橋まで戻り、キャラが馬の脚を緩ませるとライアスは飛び降りた。キャラは顔なじみの門兵長を詰め所の前に見つけると叫んだ。
「橋を上げて! 敵よ!」
「敵って一体、どこがです?」
「解らないけど、大勢の騎馬隊がすぐそこまで来てるの。お願い、急いで!」
キャラの身分を知る門兵長は、悪戯ではないと判断した。詰め所の中に向かって、「門橋を上げるぞ! 急げ!」 と叫び、傍らにいた若い兵に、門の横にある物見櫓に登って敵状を監視するよう命じた。
詰め所から兵士らが飛び出してきた。門兵長と併せて四人の兵たちは二組に分かれて門の両側に垂れている太い鎖を引いて巻き取り始める。ライアスも片側の鎖に取り付き作業を手伝う。
「あたしは公宮に報せてくるわ」
そう云ってキャラは白馬を走らせる。
頭上で叫び声が上がり、櫓の半鐘が叩き鳴らされた。若い兵士が敵の姿を認めたのだ。
分厚い木の板を連ね、鉄板で要所を補強した門橋は、滑車と輪軸の組み合わせによって増幅された兵士の力でどんどん引き上げられていき、やがて門扉となった。
現在、スーサを含むメルリース公領の領主レイモンド・デア・メルリース公爵は公都メルティアへ戻っている。キャラはスーサの公館にいる兄に事態を報せるべく馬を宮城に向かわせたが、二十歩も進まない内に呼び止められた。
「姫さま! 一体どちらへいらしたんですか」
「ああ、クラリスおじ様、良いところへ」 馬に乗った初老の男に、キャラは息せききって話す。「大変なの!川の向こうに騎馬隊の大群が!」
そう云った時、半鐘が鳴り止んだ。半鐘の槌を持った若い兵士の胸には一本の矢が刺さっていた。
「ああっ」
キャラだけでなくおじ様と呼ばれたノルディ・サン・クラリス侯爵も短い叫びをあげた。恐ろしく強弓を引く力を持つ者が敵にはいるようだ。若者の体はくずおれ、櫓の柵に隠れて見えなくなった。
しかしすぐに気を取り直した老練の軍人はキャラに問いを発した。
「敵は騎馬隊ということでしたな。数は判りますか」
キャラは首を振った。
「全部見たわけじゃないから……でも千は超えてるんじゃないかしら…」
「解りました。とにかくすぐに門橋を上げさせたのは良い判断でした。私は防衛隊に報せます。姫さまは即刻アレクシス様にご報告を。私もすぐ参ります」
「わかったわ!」
二人はそれぞれ馬を駆り、キャラはスーサに滞在する際に使っている館へと向かった。
途絶えていた半鐘が再び鳴り出した。半鐘を叩いているのはさらに若い少年だった。
ライアスはその身軽さを発揮してあっという間に櫓を登ると、倒れている若者の手から槌を取って半鐘を叩き出したのだ。半鐘が鳴っていないと異常事態であることが遠くまで、軍の施設まで伝わらない。
それを阻止しようと、外からまた矢が飛んでくる。二本まではかわせた。しかし三本目が左肩に突き刺さった。ライアスの体は衝撃を受けて半回転し、倒れている若者の体に足を取られてバランスを崩し、櫓の柵を越えて真っ逆さまに落ちていった。
次回予告