その5:正確にはジャージーシティー
「いやあ、なかなか売れないものですね」セールスマン氏が席に戻って来たので(そう言えば、お名前を聞き忘れていましたが、その席はあなたの席ではないですよね?)、ヘンリーは再び読んでいたペーパーバックを閉じた。飛行機の揺れが先ほどより強まった気がする。
「ブームも下火なんでしょうね」本の中では主人公が身に覚えもない実の娘と対面していたが(彼はただの精子提供者に過ぎなかったのだ)、この続きはまた後にしよう。「最初の頃はロンドンでも在庫不足になりかけていましたが」
「地域によりけりですね」大きな体を器用に椅子に馴染ませながらセールスマン氏が応じる。「お洒落として着ける方々もいますし。ほら、何と言ったか、イスラム教の――」
「ヒジャブ?」と、ヘンリー。近所の雑貨店の店員が似たような話をしていた記憶がある。
「そうそう、ブルカとかチャドルとか――違いがよく分かりませんが――私の知り合いにいるんですよ。あの手の衣装をお洒落にして売っているのが――」と、暑くなってきたのか、背広の上着をこれまた器用に脱ぎながらセールスマン氏は話を続ける。
ヘンリーとしては、イスラム教のお洒落事情よりサンドイッチ作りの人生の方が気になってはいるのだが、氏のお喋りは話頭が転々転々、区切って貰おうにもそもそも区切りが見付からない。
例えば、『ニューヨークに住む甥っ子に、生まれて初めて彼女が出来た』とか、
例えば、『正確にはジャージーシティーだが、彼らにもプライドがある』とか、
例えば、『その彼女が、イスタンブールから来たイスラーム教徒だった』とか、
例えば、『その彼女のBLTサンドには、豆のベーコンが挟まれている』とか、
例えば、『トーキョーにも、豆で出来たフィッシュ&チップスがあった』とか、
例えば、『この鱗模様のマスクを選んだ理由は、魚を連想させるからだ』とか。
「魚?」と、父娘の再会(初対面?)ストーリーは後回しにすることにして、ヘンリーが尋ねる。一方的なお喋りより、無意味な対話の方がマシだ。
「キリストのシンボルですよ」当然のことのようにセールスマン氏が答える。
「ああーー」ヘンリーにも信仰心がないわけではないが、正直、その手の話に彼は詳しくはないし興味もさしてない。「それで、いくつ位売れたのですか?」まだ対話の糸口が出て来そうな方に話の舵は切っておこう。
「ええと、」ズボンの尻ポケットから器用に手帳を取り出してから、セールスマン氏が商売の成果を数え始めた。「――38、39、40――いや、これにあなたに買って頂いた分も加えるので――42枚ですね」
「42枚?」彼が席を立ってから小一時間も経っていない。ヘンリーは少し驚きながら「流石ですね?」と言った。
するとセールスマン氏は、自慢するでも謙遜するでもない様子で、「いえいえ、全然、まだまだですよ――」と言い、その後、ヘンリーの膝の上に置かれたペーパーバックを指差して、「すべて、神の思し召しです」と言った。