その3:トーキョー行きの飛行機
「あなた、マスクはお着けになるタイプですか?」と、突然、隣の席の紳士が話掛けて来たので(隣の席には女性が座っていなかっただろうか?)、ヘンリーは読んでいたペーパーバックを閉じた。トーキョー行きの飛行機の機内は若干揺れている。
「マスク、ですか?」本の中の主人公はサンドイッチ作りに情熱を燃やしていたが、この続きは後に取っておくことにして、声の主の方を見る。四十代後半といったところだろうか、でっぷりとした体に細い目が埋もれている。
「ええ、マスク」真っ白い首をタテに振りながら男が答える。「これからトーキョーでしょう?クールなマスクは必須アイテムだと思いませんか?」ちぢれた金髪に横に広い鼻と口。その上には派手な黄色のマスクが乗せてある。
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前年の夏頃から中国南部を中心に始まったとされる新型の感染症は、同じ年の11月に湖北省で最初の症例が報告された後、12月にはイタリア北部の汚水処理施設からも同種のウイルスが検出され、『新たなパンデミックか?!』と、世界中を震撼させた。
しかし、数年前に大流行した鳥インフルエンザでの失敗が教訓となったのであろうか、中国当局による異例とも言える早期の情報開示と欧州各国と連携した強力な抑え込み施策が功を奏し、感染症の被害は、中国・欧州それぞれの一部地域に止められていた。
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「クールかどうかは分かりませんが、一応、持って来てはいますよ」と、背広の内ポケットに入れておいた使い捨てマスクを取り出しながらヘンリーが答える。「ただ、同じアジアでもニッポンは島国ですし、そこまで心配する必要はないと聞いていますが……」
「いえいえ、油断は禁物ですよ」今度は首をヨコに振りながら男が続ける。「我が英国も島国ですが、ロンドンの港湾作業員のような例もあったでしょう?」
「まあ、確かに、港は船も人も出入りが多いですから」使い捨てマスクの残り枚数を数えながらヘンリーが応じる。
「それにですよ――」と、男が手持ちのアタッシュケースを開きながら言った。「せっかくトーキョーに行くのですから、あちらのお姉さま方にも受けるようなクールなマスクが必要になる……そう思いませんか?」
そう言って開かれたケースの中身は、一つ一つ丁寧に梱包された、色とりどりの布マスクだった。
「これ、全部マスクですか?」と、ヘンリーは半ば呆気に取られていたが、ここからが男の腕の、口の、見せどころだった。
曰く、『これぞ、クール・ジャパンです!!』とか、
曰く、『今、日本で一番キテる模様です!!』とか、
曰く、『これで、カブキの王になれます!!』とか。
そんなやり取りが十分ぐらい続いて――ヘンリーには二時間にも永遠にも感じられたが――結局彼は、男の口車と迫力に気圧される形で、自分と婚約者用の布マスクを一枚ずつ買うことになった。
「きっと、婚約者さんも喜びますよ。とってもクールなトーキョー土産だって」男はそう言いながら席を立つと、新しい獲物……顧客を探しに出掛けた。(隣の席の女性は、一体何処に行ってしまったのだろうか?)
「まだ、到着してすらいない」ヘンリーは一人ごちたが、気持ちを落ち着かせようとスマートフォンの機内Wi-Fiをオンにして、このマスクの模様について調べた。
一見、やたらと派手に見えたマスクたちだったが、どうやら日本伝統の模様を使用しているらしく、自分用に買った緑と黒のマスクは《市松》、婚約者用に買ったピンクのマスクは《麻の葉》、セールスマン氏が着けていた黄色のマスクは《鱗模様》……と呼ばれているそうだ。
また、発端が何かまでは調べなかったが、日本では現在、これらの模様のリバイバルブームも起きているそうで、セールスマン氏の読みもあながち間違いではないのかも知れなかった。