その21:愛しいメアリー・マクダウェル
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さて。
かくして、某大手広告代理店の係長が床に落としたスティックシュガーから始まった物語は、まるで何事も起こらなかったかのように終わった。
――少なくとも、こちらの世界ではね。
『なに?!結局は【愛こそがすべて】とか、そういう話なの?!』
と仰る非難の声が聞こえて来そうだが、それに輪を掛けダメ押し気味に、件の係長のその後についても、少しだけ触れておきたいと思う。
そう。
以下は、冒頭のシーンで倒れたままの彼、ジェイムズ・ブルーム・ガードナーについてのお話である。
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さて。
彼はあの後、とある病院のベッドで目を覚ました。
目覚めた彼の傍らには、何故か愛しいモリーの寝顔があった。
彼女は、目覚めたジェイムズの視線を感じて目を覚ますと、急がず、冷静に、しっかりと、ナースコールを押してから、
「何故、あんな無茶を?」
と、彼に訊いた。
訊かれた彼は、
「気付いたんだ――」
と、未だうずく胸の痛みを気にしながらも、これまでに自分が隠して来た想いや、自分が彼女のどこに引かれているかや、彼女が誤解しているであろうステイシーとの関係 (彼女・ステイシー・ローレンツの話をすると更にややこしくなるので、これはまた別の機会に……)等々を、彼女に、真摯に、丁寧に、時々つっかえたり苦笑したりしながら、伝えた。
そして、まあ、皆さんご存知のとおり、結局のところ、数多ある愛の物語と同じく、女は男の過ちを赦し、男は女のバカな勘違いを許し、二人は結ばれることになる。
なるのだが、実は残った謎が一つ。――二つかな?
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「飛行機には、乗らなかったのかい?」
と、ジェイムズが訊いた。
そう、結局、彼女の取材旅行はどうなったのだろう?
「乗ったわよ」
と、モリーが答える。
「でも、突然、変な胸騒ぎがして、飛行機の入り口まで戻ってみたの。そしたら、搭乗ゲートの向こう側が大騒ぎになっていて――」
「――僕が倒れていた?」
彼女は、静かに首を縦に振ると、せきを切ったように涙を流し始めた。
「ありがとう。君が僕を助けてくれたんだね――」
と、――もちろん彼を助けてくれたのは空港の職員や救急車の運転手や病院のお医者さまなのだけれど、そんな野暮なことは横に置いておいて――ジェイムズはそう言うと、必死で涙を止めようとしているモリーを抱き寄せ、彼女の額に優しくキスをした。
自分のおでこに彼の柔らかな体温を感じながら彼女は、
「でも、他の乗客の人には悪いことをしたわ――」
と、涙を目に浮かべたまま、微かに笑いながらこう言った。
「私が飛行機を降りたせいで、出発が二時間も遅れたんですもの」
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――と、まあ、以上が、まるでどこかのテレビのお昼のメロドラマのような【愛こそがすべて】的ラブストーリーの顛末なのであるが、まあ、これぐらいのご都合主義的ハッピーエンドならば用意したとしても、誰にもバチは当たらないだろう。
――と云うのも、この時、モリー(愛しいメアリー・マクダウェル)が飛行機を降りてくれたおかげで、彼女が乗るはずだったBA005便の客室乗務員たちは、出発前に、給湯室のコーヒーメーカーからの異臭に気付くことが出来たからだ。
――で、まあ、そのおかげで、このBA005便は再度の飛行前点検を行なうことになり、空港の整備士たちは、一度自分たちが見落とした電気配線の不具合を見付けることが出来た。
――で、まあ、そのおかげで、この電気配線というのが飛行機の燃料タンクのそばを通っていたわけで、もし、あのまま出発していれば、ショートした電気配線の高電圧がタンク監視システムの回路を通じてタンク内にかかり、中央タンク内で気化していた燃料に引火、大爆発を起こしていたワケだが(多分)、それを回避することが出来た。
――で、まあ、そのおかげで、結果的に、真っ二つに分裂した機体が、乗客・乗員合わせて208名を乗せたままロシアの大地に落下、その全員が命を落とすことになるような事態も回避することが出来た。
――と、まあ、そんな風に考えることも出来るからだ。
――で、まあ、もちろん、実際にはそうはならなかったかも知れないし、そうなったかも知れないのだが、それこそ《神のみぞ知る》どころか、そんなことは私にも分からない。
――ただ、まあ、一つだけ言えるとしたら、マスクのセールスマン(陽気で信仰心の篤いスティーブ・グッドマン)のおすすめマスクが、飛行機の乗客たち及び一部の乗務員たちに計126枚も売れたことと、この飛行機の二時間の遅れが関係していたことは、間違いがない。……と云うことぐらいであろうか?
(おしまい)




