その20:ペチュニアの植木鉢が落ちた世界
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13時間強の空の旅――そのうちの約2時間は、コーヒーメーカーの異臭騒ぎと、それによる再度の飛行前点検によるものだったけれど――は、お世辞にも快適と言えるものではなかった。
しかし、会社が用意してくれたシートはビジネスで、元来が貧乏性のヘンリー・シルバーからすれば一日の半分以上を過ごすには十分な広さとクッション性を兼ね備えていたと言って良いだろう。
「それはつまり、我々のこの世界とよく似ているけれど、ちょっとずつ違った世界がいくつもある……と言う事ですか?」
と、セールスマン氏が言った。彼にも少しずつだが飲み込めてきたようだ。
「概ねその通りです。ペチュニアの植木鉢が落ちた世界もあれば、落ちなかった世界もある」
と、ヘンリー。彼は彼で、このセールスマン氏との会話にも慣れて来たようだ。
「でもそれなら」再びコーヒーのお代わりを頼みながらセールスマン氏は言う。
「落ちた世界のペチュニアは思うんじゃないですか?『なんで俺が?』って」
不思議なことに、時差ボケ予防のための昼寝(夜寝?)から覚めてからのここ数時間、ヘンリーの頭は驚くほどにスッキリとしていた。なるほど、今なら、セールスマン氏の疑問にも答えてあげられそうな気がする。
「実はそこが、現在の量子重力理論で議論になっているところでして」と、いつの間にか鞄の奥に入れられていた――入れたのは、きっと、同居中の婚約者だろうが――三十年ほど前に書かれたSF小説の内容を想い出しながら、ヘンリーが答えた。
「簡単に言うと、その世界が――ペチュニアが落ちたその世界が、その世界の大多数が、ペチュニアが落ちることを望んだ……と云うことなんですよ」
客室乗務員からコーヒーを受け取ったままの格好でセールスマン氏が固まった。
「世界の大多数が?」
「ええ。時間も空間も含めた、この世界の大多数が」
それにしても、シリーズ物の最終巻だけを鞄に入れた彼女の意図がよく分からない。
「時間も空間も、それそのもので存在しているわけではなく、それぞれがそれぞれの関係性の中で立ち上がっているんですよ」
ひょっとすると、子どもの頃テレビドラマの再放送をしていたので、既に知っていると思ったのかも知れない。
「それでは、その関係性のせいで、義母の植木鉢は落ちたと?」
セールスマン氏は――肩が凝らないのだろうか?――未だ固まったままだ。
「『落ちろ!』と、誰かが願ったのかも知れないし、ペチュニアが落ちることで『何か善きこと』が起ころうとしたのかも知れない」
彼女としては、主人公たちが平行宇宙を行ったり来たりするストーリーが僕の仕事と何か関係すると思ったのかも知れない。
「実は、それを調べるための装置を作ろうとしているんです」
まあ、いずれにせよ、エルヴィス・プレスリーの登場にはグッと来たけどね。
「それは、つまり、人の意識や想いも?」
と、どうにかこうにかコーヒーに口を付けたセールスマン氏が訊いた。
「関係してくると考えるべきですね」
そうヘンリーは答える。
「愛も?」
セールスマン氏の口から、その見た目とはおよそ似つかわしくない言葉が出た。
「『愛こそがすべて』と、誰かも歌っていましたし」
と、『自分らしくないセリフだ』と思いながらヘンリーが返した。
「主の御言葉のようですな」
そう言ってセールスマン氏は、その大きな口を再びマスクで隠すと、不意に自分の考えの中へと向かって行った。
そんな彼の様子を見ながら、
『しかし、』と、ヘンリーは思った。
『エディスにも一度、量子重力理論についての基礎講義が必要かも知れない――』
が、そこで、そんな彼の考えを遮るように、セールスマン氏が、
「しかし、先生」
と、考えをまとめながら……と云った感じで再び口を開いた。
「それでは、例えば、今回の感染症ですが……」
が、しかし、どうも、未だ自分の考えに自分でも付いていけていないという顔をしている。
「そう。例えば、今回の感染症は……、幸い早期に収束しましたよね?」
「ええ。中国の動きが早かったですからね」
「でも、その、先生のお話ですと、まったく収束していない世界もどこかにあるわけですよね?」
「……ええ。あり得るでしょうね」
「そうすると、その……その世界では『世界の大多数が、感染症が拡がることを望んだ』……と云うことになってしまいませんか?」
「それは……」
そう言い掛けてヘンリーは、エディスに対する自分の考えの浅はかさを思い知らされた気がした。
「……確かに、そうなってしまいますね」
自分だって、彼女の専門領域については、人工甘味料と砂糖の味の違いすら分かっていないではないか。
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――パッパラ、パッパラ。
――パッパラ、パッパラ。
――パッパラ、パッパラ。
――パッパラ、パッパラ。――
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遅れていた飛行機はもうすぐ目的地に着くようだ。
到着のアナウンスに続く形で、軽快な音楽が機内に鳴り始める。
セールスマン氏が、窓の外を覗かせてくれとヘンリーに頼み、二人は席を交代した。
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――パッパラ、パッパラ。
――パッパラ、パッパラ。
――パッパラ、パッパラ。
――パッパラ、パッパラ。――
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何処かで、誰かが、何かを、歌おうとしていた。
ヘンリーは、無事飛行機が目的地に着くことに、何か不思議な力が働いているような感じを受けた。
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