その2:パディントンの駅
パディントンからオックスフォードまでは電車で一時間ほど。お昼の仕込みを手伝って、通勤時間帯には絶対に被らないよう注意しながら――混み合う電車に乗るために高い料金を払わなければならないなんて、この世界はどうかしている――小旅行の準備をする。
一人でオックスフォードに向かうのは初めてだが、ヘンリーが留守なので仕方がないし、彼の独り暮らしの叔母さんとの会話は、彼抜きでも(多分、彼抜きの方が)絶対に盛り上がるような気がする。
彼の昔話も聞けるし――頑固で泣き虫なのは赤ん坊の頃からだそうだ――、私の料理に適切なアドバイスも与えてくれる。彼女のアドバイスがお店の料理に驚くほどの好影響を与えてくれていることは、料理長のフェビアンはまだ知らない。
パディントンの駅はいつものように混んでいて、オレンジ帽子の子熊はもちろんいなかったけれど、同じ色の子どもなら三人ほど見掛けたし、ヘンリーに似た人も二人ほど見掛けた。
しかし、今日の彼は、トーキョー行きの飛行機の中だ。
「それで、一体、何を見るの?」頭の中で首を横に振りながら、昨夜の会話を想い出す。「オリンピックもなくなったのに」
「オリンピックはなくなったけど」オックスフォードの大学で貰ったというセンスの悪い黄色と緑のネクタイをバッグにしまい込みながら彼が言う。「みんな、仕事も生活も続けているのさ」
「いつもみたいに、パソコンで済ませられないの?」と彼女は言う。そもそも、今回の彼の出張自体イレギュラーだ。いつもなら、ロンドンどころか町内からもほとんど出ない男が――それでいて世界中の人たちと四六時中仕事をしているような男が、突然、オリンピックすら中止となった都市に行くのだ。心配するのも当然だろう。
「確かに、離れていても出来る仕事はたくさんあるよ。みんな繋がっているからね」飛行機の中ででも読むのだろうか?見掛けも内容も重たそうな本を選びながら彼が答える。「でも、今回のトーキョー行きは、どうしても僕に、と言われた案件なんだ」
そう言って彼――ヘンリー・シルバーは、彼女の目と眉の間に並んだ三個のホクロを見詰めた。