その15:右斜め後ろ7~8m
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亀裂は、ヘンリーの右斜め後ろ7~8mのところから始まり、そのまま、客席シートの上方を円を描くように拡がっていた。
乗客は、機内アナウンスに従がいベルトを締めて前屈みになっていたが、アナウンスをした当の客室乗務員や彼女の同僚たちは宙を舞ったり壁に打ち付けられたりしている。
セールスマン氏のアタッシュケースは、まだ彼の手元に残ってはいたが、開けたタイミングが悪かったのだろう、色とりどりの布マスクたちは、出来たばかりの裂け目に向かい一斉に飛び立っていた。
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「ヘンリー?!もしもし?あなたなの?」
オックスフォード行きの列車の車中でエディスは叫び、
周囲の乗客たちが一斉に彼女の方を振り返る。
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「まさか、僕も、本当につながるとは、思っていなかった」
トーキョー行きの飛行機の機内でヘンリーも叫んだが、
周囲の乗客たちは彼の方を見る余裕すらない。
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「なに?よく聞こえないわ。飛行機はどうしたの?」
周囲の目を気にしながら、客室の出入り口に向けて彼女は歩き出した。
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「飛行機が爆発した!」
周囲に風の音があふれて、乗客の悲鳴を掻き消して行く。
ヘンリーの背後に真っ青な空が拡がり出した。
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「なんですって?」
車両の連結部にまで来たが、いくら声を上げても、彼には聞こえていないような気がする。
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「このままだと、飛行機は真っ二つになる」と、ヘンリーが言った。「けど、その前に、試してみたいことがあるんだ」
ふと、隣のセールスマン氏を見ると、彼は何かを熱心に唱え始めている。
多分、聖書の一節か何かだろう。
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「試す?今、あなた、試すって言ったの?」と、エディスは言った。「『試してみたいこと』までは聞こえたんだけれど」しかし、それが何を示しているのかまでは彼女には分からない。
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「聞こえているかどうかは分からない」と、ヘンリー。目の前にぶら下がる酸素マスクが、まるで十字架のように見える。「けれど、時間も無さそうなんだ」
再び、セールスマン氏の方を見た。
彼の祈りは、何故か、同じところを何度も何度も繰り返している。
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「エジンバラだ」電話の向こうのヘンリーが言った。「あの日の会話を想い出して欲しい」
唯一、『エジンバラ』という単語だけが聞き取れた。何が言いたいのだろう?
私の両親のことだろうか?それとも婚約指輪のことだろうか?
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「事も、物も、互いに影響を及ばし合うことで、その姿を現している」
怒声と悲鳴と轟音が周囲を埋め尽くした。
「それは、空間そのもの、時間そのものも、同様だ」
この声は、きっと彼女には届いていないだろう。
「すべて現象は、独りでは存在出来ない」
それでも、彼には確信があったし、確信を持っていると云う確信すらあった。
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「いいかい?エディス」
と、電話の向こうでヘンリーが言った。――パッパラ、パッパラ。
「君しか頼れる人がいないんだ」
また、それと同時に、何処かで誰かが何かを歌おうとしていた。――パッパラ、パッパラ。
「だから、これはお願いなんだ」――パッパラ、パッパラ。
「僕が、僕の乗ったこの飛行機が、無事に、目的地まで、辿り着けることを、ただただ、祈っていて欲しい」――パッパラ、パッパラ。――
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「ただ、祈ってくれるだけ、想ってくれるだけで良いんだ」
とヘンリーは言った。――パッパラ、パッパラ。
「いいかい?エディス」――パッパラ、パッパラ。
「君を、愛しているよ」――パッパラ、パッパラ。
「私も、愛しているわ」――パッパラ、パッパラ。――
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最後の言葉は彼女には届かなかったかも知れない。――パッパラ、パッパラ。
しかし、偶然だろうか?いや、多分、必然だろう。――パッパラ、パッパラ。
つまり、列車の中の彼女も同じ言葉を呟いていた。――パッパラ、パッパラ。
飛行機の窓からは急速に近付いてくる大地が見え、――パッパラ、パッパラ。――
背後には青い空とそこに拡がる炎と煙とがあった。――パッパラ、パッパラ。
セールスマン氏の言葉は、既に体をなしておらず、――パッパラ、パッパラ。
ただのリズムや打撃音のようなものに変っていた。――パッパラ、パッパラ。
いや違う、これはトム・ジョーンズじゃないか?!――パッパラ、パッパラ。――
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そう。彼は、トム・ジョーンズの『よくあることさ』を歌おうとしている――。
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