アドバイス罪 ~はからずも咎人にされた一作家の愚痴~
さて、懺悔してしまいましょう。
アドバイスすることが罪になるというのならば、私は咎人です。なぜならば私は裏で実に多くの人に『裏感想』なるアドバイスを送り、そして嫌われているのですから。
その咎人の自己弁護のための繰り言を、どうぞ聞いてやってください。
最初に言いますと、多くの人が『アドバイス』と『アドバイスの体を装った感想』の区別がついていないのではないかと、だからこそアドバイス罪なる言葉が生まれたのではないかと私は思います。
多く、読者には物語の先がこうであるはずだと先読みする自由や、物語がこうであればよいのにと願う自由があります。仲間内で小規模に語るだけならば、この自由は守られてしかるべきであり、また何よりも楽しい仲間とのコミュニケーションとして成立するでしょう。
しかし、これを作者に対してやってはいけない。物語の主導権を握っているのは読者ではなくて作者なのですから。例えばそれは運転を作者に任せて、自分たちは乗客としてドライブに出るがごとく。
ハンドルを握っているのも、行先を決めるのも作者です。読者はただ『乗っているだけ』。その状態ですべての読者が好き勝手に「おい、運転荒いんだけど」「行先は東京がいいなあ」「あ、東京は嫌、埼玉に行こうよ」などと話しかけたらどうなるでしょうか。きっと作者はすべての意見を聞こうとして運転に対する集中力を失くすことでしょう。最悪、大事故につながるかもしれない。
乗客は乗客同士、「こいつの運転、荒くね?」「行先はどこだと思う?」なんて雑談を楽しめばいいのです。それに対して運転者が聞き耳を立てるも、その雑談を聞かなくて済むように耳をふさぐも自由、それが理想的な下馬評の在り方なのです。
だけど、ここで厳しいことを言っておきましょう。ネット小説ではアドバイスがなんなのかもわからずに「俺の運転、どうっすかね?」と乗客に聞く作者が多い。つまり無意識のうちに褒められることを期待して「どんな感想でもいい、アドバイスも大歓迎です」と公言する輩がいるから、ネット小説の読者はそうした下馬評を作者に聞かせてもいいものだと勘違いしているのです。下馬評は下馬評、アドバイスでも感想でもないということを、作者も読者ももっと自覚するべきなのではないでしょうか。
そうした区別すらつかないくせに、誰かが言い出した『アドバイス罪』なんていう見てくれの良い言葉に乗っかって、物言われた自分がいかにもカワイソウだとアピールすることは、作家としてもっとも恥ずべき行為です(私見)。
例えばですよ、ドライブするのに「運転中、なにか不具合があったらいつでも言ってくれよな!」と自分から言い出したとしましょう。ところが、途中で乗客の一人が真っ青な顔をして「あの……どこかに連れてってくれるのうれしい……ドライブは本当に楽しいんだよ、それは本当さ。でも……もうちょっと丁寧に運転してくれないかな……」と言い出しました、その時にあなたはどうしますか、ということです。もちろん、言われたとおりに運転に気を使うのも、「おう、これで精いっぱいだ、文句があるならアンタが降りてくんな」と乗客を放り出すのも作者の自由です。だけどですよ、もう、たったすこし物言っただけで「聞きましたか、アドバイス罪です! こいつ、俺に向かってアドバイスしました!」と指さすのは、あまりにも恥ずかしい。
そんなことしてない? 本当ですか? ならばなぜあなたは、『アドバイス罪』などという他人を罪人あつかいするような言い回しに心惹かれたのです?
一つ『アドバイス』をしておきましょう。言葉には言霊という力があるといいますよね、あれは全く本当のことです。もっともそれは「ありがとう」と書いておくと物の腐りが遅くなるとか、植物の成長が早まるなんて言うスピリチュアルなものではなくて、人間の心理に大きく作用するよっていう……まあ、スピリチュアルとは真逆の意味で眉唾物のチカラなんですけどね。
アドバイス罪に似た言葉に、『酷評』とか『クソアドバイス』なんて言葉があるでしょう? あれはちょうだいした評に対して使う言葉であって、相手の人格を攻撃するものではありませんよね。相手の人格までを攻撃したければ『酷評家』とか、『クソアドバイザー』のように、『評をくれる人』を意味するように言い回しが変わるわけです。それだって個人攻撃の域を出ない。
「くっそー、あの酷評家め、俺様の素晴らしい作品にケチつけやがって!」と愚痴ることには使えても、酷評家だから社会的に断罪するべしとはならないわけです。
ところが、『アドバイス罪』という言葉は、言霊的にはとても危険です。類似の言葉として『○○罪』……殺人罪とか、窃盗罪の場合、この言葉は『社会的に裁かれるべき罪を犯した』という意味を内包しています。つまりアドバイス罪ならば『アドバイスを与えるという、社会に裁かれるべき罪を犯した』ですね。つまりこの言葉を使うことによって、アドバイスをよこした人物を社会的に裁かれる罪人として仕立てることができてしまうのです。
つまり、自分の意に染まぬ反応をした読者を『アドバイス罪』を犯した罪人として晒したり攻撃することへの心理的敷居が下がってしまう。それも無意識のうちに。
この無意識こそが言霊の正体なのです。だからうかつに『アドバイス罪』なんて言い回しを使っていると、無意識のうちに相手を罪人扱い『しても良い』という心があなたの中で育ってゆくであろうと、これを警告しておきます。
とはいえ、たしかに『いらぬアドバイス』というものがネット社会にはあふれていますよね。これは作者と読者が近しいからこその弊害ではありますが。
つまり、本来ならば『下馬評』として仲間内で盛り上がるだけだったネガティブな感想が作者の耳に入るようになってしまったと、単にそれだけのことなのです。
読者が自分の読んでいる作品を自由にこき下ろす権利があるように、作者にはそうした『下馬評』を無視する権利があります。もちろん、そうした下馬評のうちから改善点を見つけ出すのも良いですが……基本的に下馬評など、作品を書く役には立ちません、遠慮なく無視しましょう。
もっとも、みなさんはアザとーと違って「人の話はよく聞かなくてはなりません」と教えられたいい子たちなので、どれが『聞く価値のない話』なのか分からないですよね。なので、簡単な見分け方をご紹介しておきます。アドバイスの皮をかぶった単なる読者のエゴは『作者の気持ちを無視したものである』……たったこれだけです。
たとえばあなたが恋愛ものを書いているとしましょう。しかも『改善点を知りたいので、酷評大歓迎です』と書いたとしましょう。きっと実に様々な反応が読者から得られるはずです。
物語序盤で『ヒロインが婚約者を毛嫌いする理由がわかりません。婚約者は何も悪いことしていないのに一方的で身勝手だと思います。普通はヒロインが○○という行動をとったならば婚約者は~~という反応をするはずであり……』という感想がついたら……これ、めっちゃ典型的なクソアドバイスの一例です。
作者であるあなたは、毛嫌いする婚約者を好きになってゆく過程をじっくり書こうと思っていた、ところが序盤からそんな作者の気持ちなど完全無視です。例えばこれを『ヒロインが婚約者を毛嫌いしている状態から始まる、それは理解しました、だけど……』と言ってくれる読者がいたら、その人の言うことは伏して聞くべきです。なぜなら作者の意図をくみ取ったうえで、読者側から見たときの不備を教えてくれようとしているではありませんか。
ほかにも『普通は』という言い回し、俺、これ大嫌い。作者が描こうとしているのは『普通』なんて一般大多数ではなく、今この瞬間、この人物っていう『特殊例』です。もちろん物語の中には作者による不備がいくつかあって、例えば花の咲く時期とか、食べ物の旬みたいな季節感とか、あとは盆踊りは夏のお祭りだよ、みたいな『一般常識』は直されてしかるべきだし、どんどん指摘されれればいいのです。もちろん、作者が意図的に間違いを組み込んでいることもありますが、それならばそれで『意図的な間違いである』ということまで読者に伝わらなければならない、だから一般常識レベルの話は指摘された時点で作者の負けです。
ところが、『普通は』なんて一般大多数の話、これは読者の作者に対する知識マウントでしかない。つまり作者が書こうとしている『個性』を無視して、いくつもある特殊例の中のほんの一例を、まるで花が何月に咲くのかと同じレベルの一般常識扱いして語る、本当に恥ずかしいやり方なのです。作者として読者に情けをかけるなら、「そうですか、そういうこともあるんですね」と恥をかかせないようにお帰りいただけばいいだけの話。
逆に作者のことを考えてなお『すみませんが』と声をあげた読者、これを無視してはいけません。それはドライブでいえば我慢に我慢を重ねてなお、車酔いに耐えかねて「運転をもう少し丁寧に……」といいに来たのと同じ。この人をエンドマークまで車内にいてもらおうと思うならば、作者の方が気を使うべきなのです。
さて、アドバイス罪を犯した咎人の自己弁護は、ここからが本番。私がどのようにして他人にアドバイスなんておこがましいものを与えているのかをお話ししましょう。
まず、相手の作品を読むこと。一度では読み下せず、二回も三回も読むことがあります。逆にざっと字面を眺めるだけの時もありますが、その時は深いアドバイスは絶対にしません。相手に与えるアドバイスが大きければ大きいほど、深く相手の作品を読みます。
主に着眼するところは、『作者がなにを意図したのか』です。そうしたものは読者が気付かぬように伏線が張ってあったりもするので、伏線抜けがないかをくりかえし確認したりもします。かつアザとー、執筆中の作品を小出しにチェックさせてもらったりもするので、先読みもします。ただしこれ、「この主人公には幸せになってもらいたい!」とかの感情を一切排除した、機能的な先読みです。つまり「作者の意図として、ここは伏線になるはずだ」という完全な機能チェック。下馬評などさしはさむ余地もないです。
だからアザとーチェックを食らったことのある人は知っているのですが、俺、「題材やテーマ」に関して異を唱えたことは一度もないです。「そのテーマならこの仕掛けではよくないよ」ってダメを出すことはあっても、「テーマ自体が良くないですよ、そんなこと書くなんて、ダメ人間丸出し」とか、絶対に言わないです。それはどんなテーマも展開次第によっては路傍の石を磨くがごとく思わぬ輝きが現れることを知ってるから。
あとは簡単な日本語のチェック。普段の口語っていうのはてにをはがあいまいだったり、主語が抜けたりしていても意外と会話が成立しちゃうものなのです。だけどそれを文章に起こすとどうしてもてにをは一つで意味が違ってしまうとか、主語が絶対にないといけないってタイミングがあって、最低限そのチェックはするのです。だって、せっかく書いた文章がてにをはの一つや、短い主語の一節がないだけで読者に誤解されるとか、もったいないじゃん?
さて、そこまで気を使ってはいても、俺の言葉は作品に対するダメ出しでしかなく、それ故に人に嫌われることも多々あります。それはそうですよね、だれだって自分の作品は『できている』つもり、他の人から余計な口出しされたくないですよね。なのに俺は『できていたつもり』という自信を粉砕し、そのうえで持論をぶちまけるんだから嫌われて当然です。よくわかっています。
でも、だからといって『アドバイス罪』なんて明らかな罪人扱いを受けるいわれがあるのでしょうか? 裁判官はあなたです、よく考えてください。
あなたの心の中に、この『アドバイス罪』という強すぎる言葉を使う覚悟は、どれほどあるのでしょうか。それとも覚悟なんか一つもなしに、自分の創作姿勢に対する言い訳が一つ増えた、覚えておこうぐらいの気持ち?
本当に仮にも作家を名乗る身なのだから、もっと考えて、マジで。
『 ア ド バ イ ス 罪 』 っ て 何 で す か ?