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気持ちの良い晴れやかな朝。
結論からいうと、わたくしはまだ乙女だ。
昨夜、ダーマッドはわたくしを抱かなかった。
スクランブルエッグ、カリカリのベーコン、レンズ豆の煮込み、トーストにマーマレード、果物の盛り合わせ、オレンジジュース、それと熱いハーブティーは蜂蜜とミルク入り。
ベッドに乗せられたトレーを見て思わず美味しそう!と呟いてお祈りをする。
王宮では朝食はダイニングで、食べたいものを自分で取り分けていたから料理によってはすっかり冷めていた。それに朝から果物がこんなに種類たくさんあることはない。
今日が特別メニューなのかもしれないが侯爵邸のほうがこれまでよりもずっとお姫様扱いな気がしてくる。ベッドに朝食が運ばれて来るなんて。
出来立てほかほかのスクランブルエッグは口に含んだ瞬間バターの香りがほわりと広がるクリーミーな口当たり。ベーコンは侯爵領の特産品だろう。塩気がまろやかでナッツのような風味豊かな脂身はしつこくなくいくらでも食べれそうだ。果物は食べやすくカットされとても新鮮でみずみずしい。どれもとても美味しい。
「若奥様……お顔がすごいことになってますよ」
見守るアリーが心配そうに言った。
初めてのことに脅え泣き震えるわたくしに、そういうことをいたすことができない、と。
少し怒ったように、でもできるだけ柔らかい口調でそう告げてベッドから離れようとしたダーマッドの、ガウンをわたくしが握りしめている。
「グィネヴィア、手を……」
困惑してわたくしの顔を見ると、まだ止まるどころかぼろぼろと溢れる涙に気付いて優しく頬を撫でてくれる。
「いや…」
「嫌なんでしょう?無理強いはいたしません」
手を引っ込めて苛立たしそうに目を逸らす。
「っ…ちがっ……」
やっぱりわたくしでは駄目なのだろうか?
そもそも抱きたくない上に泣いてる女なんて、ひどい姿にそんな気も起きないのだろう。でも、我儘だけどせめて傍にいてくれないだろうか。少しでも仲良くなりたい。いや、今立ち去られると悲しくて胸が潰れてしまいそう。
嗚咽で喋ることができない。行かないで、と言いたいのに。
「大切なあなたをこんな風に脅え泣かせる自分が嫌なのです。私がいると涙が止まらないのでしょう?立ち去ることをお許しください」
嫌だそんなの。ふるふる顔を振る。許可しない。したくない。それに脅えて泣いてるわけじゃない。傍にいてほしいの。伝えられなくてもどかしい。
ダーマッドが、辛そうにため息をつく。ベッドの端に腰掛けて背を向けた。震えて力が入らない手を必死に伸ばして腰を掴むとびくっとこちらを振り返る。
「無理に務めを果たそうと頑張らなくて大丈夫です。私は待ちますから…」
眉をしかめてそう言う。少し語気が荒い。
待つ……?務め?なんのこと?
不思議そうに見上げるわたくしを見てもう一度ため息をつくと、ベッドから立ち上がって扉へ向かった。追おうとしたが身体に力が入らない。
「いやっ…」
ダーマッドが部屋から出ていった。バタンと扉が閉まる。
「…やぁ…っ」
必死に追い縋ろうとして、身体が傾く。
大きな音と衝撃。
ベッドから落ちた。高さのあるベッドなので落ちた時に踏み台が当たって飛び、ベッド脇の台にぶつかって派手な音がしたようだ。
好きな男に逃げられて、追いかけようとしてベッドから落ちるとか、ひどい有り様だ。もう嫌だ。
「グィネヴィア?」
ダーマッドが戻ってきた。音に驚いたのだろう。こんな情けない姿を見られるなんて、ほんと、やだもう……
駆け寄って、絨毯の上に横たわるわたくしの意識があることを確認すると抱き上げてベッドに戻してくれる。
「大丈夫ですか?痛いところはありませんか?」
綺麗な顔が、心配そうに見つめる。
「申し訳ありません。私が勝手に出ていったから……」
「ち、がう……」
落ちた衝撃でか、嗚咽と震えがかなりおさまっている。
「そばにいて…ほしいの」
掠れながらも、話すことが出来る。声が出る。
「好き、好きなの、ダーマッド。行かないで…そばにいて」
やっと、言えた。ダーマッドの目が見開いて、ランプの仄かな光に琥珀色の瞳が煌めくのが見える。
「ダーマッド…?」
眉尻を下げて、泣きそうに顔をくしゃっとさせる。そんな顔初めて見た。
ぎゅっとわたくしを抱き締める。
「グィネヴィア……グィネヴィア」
ダーマッドがわたくしの首もとに顔を埋めて、震えている。わたくしもダーマッドの背に手を回してぎゅっと力をこめた。
暫くそうしてから、ダーマッドが身体を離してわたくしを見つめた。ふんわりといつもの優しい顔で、少しはにかんで。
微笑んでわたくしの頬を撫でるとベッド横の台に用意してある水をグラスに注いで口許に持ってきてくれた。
「たくさん泣いたから、喉が渇いたでしょう?」
頷くと、ダーマッドがゆっくりと飲ませてくれる。
「痛いところは、ありませんか?」
まだ感覚が戻らなくてわからないけど、訓練されているせいで咄嗟に受け身を取ったみたい。多分大丈夫。頷く。
安心したようにグラスを戻すと、わたくしを横に寝かせて布団を掛けてくれた。
ダーマッドを見ると、にこっと笑顔でベッドに潜りこんでくる。ランプを消して、そのままわたくしの方を向いて優しく抱き締めると腕枕をしてくれた。はぁ…夢にまで見たダーマッドの腕枕。
「傍に、います。ずっといます」
優しくそう囁く。愛しそうに頬を撫でて、唇にキスしてくれる。うわ、可愛い。暗くてよく見えないけど今の、ちゅってキスの仕方が、可愛い。
「おやすみなさいグィネヴィア」
「おやすみなさいダーマッド」
わたくしもダーマッドにちゅっとキスすると、少し動揺しているけど、嫌じゃないみたい。よかった。
なんだろう、ふわふわする。ドキドキするけどダーマッドの胸に顔を埋めて彼の温もりを貪る。もぞもぞとすり寄って抱きつくとあったかい。安心する甘い匂い。大好きな癒しオーラにとっぷりと浸る。
最初の、震えてしまうほどの興奮はなんだったんだろう?あまりに激しい高揚に涙が勝手に出てしまった。今は不思議なほど落ち着いて、幸せ。
頭や背中を優しく撫でてくれるダーマッドの手が心地良くてうっとりする。すっかり湯冷めして冷えた足先に気付いて脚を絡めてくれた。ガウンから出るダーマッドの素足がすべすべで、思わず足ですりすりする。ダーマッドのお肌がきめ細かくって気持ちいい。
「ふふ、あったかい」
「グィネヴィアくすぐったい」
小さな声で可愛い、と呟きながら額やこめかみにちゅっとキスを落としてふふっと笑うダーマッドの吐息がくすぐったい。
「それで、抱き合ってちゅっちゅっしてたら気持ちよーく眠っちゃって、朝起きてまた優しく抱き締められてちゅっちゅっしてもらって、幸せすぎてそんなに顔がでれっでれなんですねぇ?」
アリーがにやにやしながらわたくしの話を締める。
わたくしの今の顔は、うへへ~とか、にへら~とか、そういう感じらしい。表情筋は言うこときかないようで、自分でも絞まりがないのは自覚している。
だって、あのダーマッドがわたくしのこと可愛いとか愛してるとかたくさん言ってくれるのだもの。抱き締めてキスをいっぱい……えへへへへ、幸せ。
「うわぁ……でれでれ……。まぁとりあえず、身支度しましょうか。エセルレッド王子殿下とジェラルド王子殿下がさっそく遊びにいらしてるみたいですし」
「あのふたり、ほんとダーマッドのことが好きよねぇ」
兄のエセルレッドはダーマッドが王宮に上がり始めてからずっと彼のことが大好きで、暇があればずっとくっついている。
ジェラルドは、わたくしの婚約者であった時は殆ど交流はないはずだが今回のごたごたですっかりダーマッドを気に入ったようで、暇なのもあるのか恋人のようにいつもダーマッドの側にいる。
兄もジェラルドも、手裏剣投げちゃおうかな?と思うぐらいダーマッドにベッタリとくっついている。女性には人気のないダーマッドは男性にはモテモテだ。本人はどちらも空気のようにあしらっているが。
どうしてダーマッドは女性に人気がないのかしら?モテても嫌だけど。
わたくしにはこの世でいちばんの美男子に見えるのに。兄をどければこの国でいちばん素敵な若者だと思う。好きな人フィルターというものなのだろうか?性格も優しいし、ジェラルドのような華やかさはたしかにないかもしれないが顔立ちは整ってスタイルも良い。不思議。
外が騒がしくて窓を覗くと、ダーマッドと兄とジェラルド、青揃隊の面々が庭で剣や槍を手に談笑している。朝の特訓の途中に二人が来たのだろう。青揃隊もダーマッドを囲って楽しそうだ。どんだけ男に好かれるんだダーマッド?
ふと全員同じ方向を見る。誰かに挨拶している。邸から女性が出てきたようだ。
ふんわりと目映い金髪の可愛らしいご令嬢、あれはシャルロッテ。
こんな時間に邸から出てきたということは、彼女はこの侯爵邸にいたということ?
え?どういうこと?
ダーマッドの元婚約者がどうしてここに?




