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兄妹

 制服の洗濯が終わった頃にはすっかり夜になっていた。

 僅かに漂っていた嘔吐物の異臭が消えた制服をベランダに干した後、光はすぐに自室に引きこもった。

 明かりもつけず、薄暗い部屋の片隅で膝を抱えて、涙を流す。

 その様子はまるで土の中に隠れるダンゴ虫のようだ。

 光は孤独だった。

 昔から勉強も運動もできず、かと言って特技もない。猫型ロボットが主役の有名漫画に登場する眼鏡の少年とは比べられない程の劣った人間。

 救いようのないほど人間を人々は嘲笑し、迫害する。別に光は罪を犯したわけでもない。人を傷つけたことも、物を盗んだこともない。

 ただ、人より劣っているだけで虐げられる。理不尽な悪意に存在することが罪と言わんばかりに責め立てられる。

 人より劣ってばかりの光だが、唯一顔が整っていることだけが救いか。

 否、救いではなかった。顔がいいことを妬まれて、クラスの女子によく勿体ないという酷い理由で虐められていた。

 唯一の救いですら光を苦しめる枷でしかなかった。

 光を愛するどころ人として見る者は殆どいなかった。

 虫けらのようにぞんざいに扱われるだけの日々はただ辛いだけ。

 しかし、一人だけいた。

 光を心の底から愛し、傍にいてくれた人間が。その人がいるからこそ、光は今日まで何とか生き長らえてきた。

 光の部屋の扉を誰かがノックする。

 誰だろうと考える意味はない。

 この家で光のことを気に掛ける人間は一人しかいない。


「光、風呂湧いたって」


「お兄ちゃん……!」


 最愛の兄の声を聞き、光は少しだけ元気を取り戻す。

 涙を拭い、咄嗟に立ち上がり、扉を開ける。

 扉の前には廊下の明かりに照らされているロウがいた。


「おい、真っ暗な部屋で何して……って目が赤く腫れてるじゃないか!」


 光の泣きっ面を見て、ロウは酷く心配する。

 まるで自分のことのように心配してくれる兄。世間では重度のシスコンと敬遠される性格だが、そんな兄が大好きだ。

 誰も光のことなど気にも留めない。悩み、悲しんでいようと誰も話を聞こうとせず、手を差し伸べない。それどころか無視し、手を払い除けることで光が傷つき、苦しんでいる方が他人には喜ばれる。

 だが、ロウは違う。悩みがあれば相談に乗る。話を最後まで聞いてくれる。助けを求めれば、必ず助けてくれる。

 光にとってロウはヒーローなのだ。悪意に満ちた世界で守ってくれる唯一のヒーロー。


「……また、テストで赤点取っちゃって……」


「そうか。なぁ、どこかわからなかった? 風呂上ったら見るよ」


「お兄ちゃん……私のことはいいから!」


「でも、赤点なら再試があるんだろう。それに備えないと」


「そうだけど……」


 確かにロウの言う通りだ。再試がある以上、そこで結果を出さなければ成績がつかない。

 とても重要な問題だが、光は勉強を見てくれることにあまり乗り気ではなかった。

 ロウは光の勉強を自発的に見てくれる。

 何度も努力しても結果を出せないにも関わらず、失望することなく熱心に。

 勉強を教えてくれるのは非常に嬉しかった。

 でも、ロウがわざわざ時間を割いてまで面倒を見てくれているにも関わらず、全く結果を出せていなくて、ただただ申し訳なかった。


「お兄ちゃんだってテストが……」


 そして、気が乗らない一番の理由がロウのことだ。

 ほんの一年前、ロウは光のことを気に掛け過ぎて、自分の勉強を疎かにし、著しく成績を下げたことがあった。

 ロウの通う学校は厳しく、中高一貫のエスカレーター校とは言え、あまりにも酷い成績では高校には進学させてもらえないのだ。

 下がった成績を見て、両親は驚いていたが特にしかることはしなかった。

 別に怠けていたわけではないと気づいていたから。余計なものにリソースを割いてしまった為、一時的に下がっただけなのだと結論付けていた。

 代わりに光がしかられた。ロウの努力を無駄にするかのように酷い成績であったが故にそれはもう酷く。

 ロウの脚を引っ張るな。お前よりも明るい未来を行く、ロウの邪魔をして楽しいかと。

 両親の結論通り、次の試験では下がった成績を取り戻すかのように学年で上位五名に入るほどの高い成績を残した。

 その時、光は自分がロウの枷でしかないことを理解した。

 自分が甘えるせいでロウに迷惑をかける。別にこれが他人や両親だったら何も関係がなかった。

 でも、愛してくれる兄だった。無償でくれた愛を仇で返したくなかった。

 だから、光は全て一人で解決しようと決意していた。無論、誰よりも劣る光には不可能なことだ。

 それでもロウに迷惑がかからないのであればそれで十分だ。


「あぁ、俺は大丈夫。問題なく高校に進学できるから」


 そう言って、ロウは笑う。

 光に気を使わせない為の方便かそれともただの事実なのか。

 きっと後者だろうと光は思った。

 自分とは違って有限実行できるくらい優秀だから。

 今こそ、光はロウにベッタリだが、四、五年までは酷く妬み、嫌っていた。

 ただ先に生まれただけなのに才能も何かもが天と地の差があるのか。まるで、後から生まれる自分の才能も全部吸収して生まれてきたのかと思うくらいの差。

 どうして自分はこんなに苦しんで、兄は順風満帆な人生を歩んでいるのか。

 生まれながらにして与えられた理不尽に光は心は荒んだ。

 そして、ロウは光の沸々と煮える負の感情等には全く気づかずに普通に接する。他人とは悪意を持たず、寧ろ善意を持って。

 何か失敗すれば努力すれば何とかなる。人には得手不得手があるから、光はいつか得意なことを見つければいい。

 努力をすれば必ず報われるのが当然だと思っている。人には誰しも特技がある。そんなのは優秀な人間にしか適用されない常識。

 その常識が当然だと思っているのがロウだった。

 だから、ロウが憎かった。

 殺したい程に。

 だが、光の本音とは裏腹にロウは兄としての責務を愚直に果たし続けた。

 光がデパートでお気に入りのぬいぐるみを無くした時にロウは職員に声をかけながら、全フロアをくまなく探した。

 父方の祖母が住む田舎にある森で迷子になった時は全身を汗と泥塗れになってまで探した。

 近所のガキ大将に光が虐められていた時は自分を犠牲にしてまで果敢に立ち向かい、守った。

 こんな劣等な妹の為に全力で尽くす兄の姿に次第に光は心を開いていき、現在に至る。


「うん。それなら、お願い。お兄ちゃん!」


「おうよ! 次こそはいい点取らせてやるからな!」


 ロウは光の髪を撫でる。

 光はロウの髪を撫でるその手が一番好きだ。

 ちゃんと自分を愛してくれているのだと実感できて、心が落ち着くのだ。

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