苦み
腹を空かせたロウはそのまま老人に自宅へと連れていかれた。
家は石造りでできていた外観はまるでエジプトの遺跡のようだ。
老人に招かれ、ロウは中に入る。
石造りの壁と床に囲まれ、部屋は居間の一室しかない。部屋の隅に台所と棚が一つずつ置かれている。明かりは窓から差し込む日差しのみで少し薄暗い。
今まで訪ねた待ちや村に比べて文明レベルはかなり劣っているように見える。
そんな殺風景で面白みのない家に漂う香ばしい香り。
「この匂い……珈琲か」
「あぁ、この村は珈琲豆だけで成り立っていたと言っても過言ではない」
そう言いながら老人は棚に置かれた大きな四角い鉄の箱の上に横にレバーの着いた丸い鉄の乗ったコーヒーミルを手に取り、台所に置く。
台所の下にある棚から珈琲豆と円状の紙と注ぎ口と取っ手のある三角形鉄の容器に二つの珈琲カップ、鍋を取り出す。
まず鍋で台所の横に備え付けられた水瓶から水を掬う。水の入った鍋をコンロらしき台に置く。コンロの下には小さな小枝や雑草が置かれていた。恐らく、草木が生えないこの地域ではかなり貴重な資源だ。
すると、ポケットからマッチを取り出し、擦って火をつけるとコンロに放り込み、火をつけると水を沸かす。
次にコーヒーミルに豆を投入し、レバーを前に回し、擦り潰す。長年を愛用しているようでレバーを回す度に鉄特有の甲高い音とゴリゴリと豆を挽く音が合わさり、絶妙なハーモニーとなって家の中に響く。
「そういえばどうしてこの村に人がいなくなった?」
「楽園に導かれてな」
「楽園?」
「あぁ。聞くところによると万人が幸福でいられる場所らしい」
「幸福……いいじゃないか」
万人が幸福いられる場所と聞いてロウは心惹かれた。
以前の世界が万人が不幸に苛まれる世界であったから、地獄であったから対照的な天国のような幸せな世界に憧れを抱いた。
「そうか。お前さんも普通だな」
老人は安堵の息を漏らす。
「そういえばどうしてこんな辺鄙な村に?」
「世界を放浪しているのさ」
「旅人か。若いのにやるな。なら、楽園にも行くつもりなのか」
「気になってはいるな。どこにあるんだ?」
「さぁ、どこにあるかは不明だ」
「じゃあ、村に人達はどうやって?」
「鉄の塊に入ってな」
ロウは首を傾げる。
「それはなんだ?」
「儂も初めて見たのだから説明しようがなくてな。馬車みたいだった。車輪のついた四角い鉄の塊が繋がっていて、戦闘には馬の代わりに煙突の付いたものがあったな」
「……機関車?」
煙突の付いた車輪の塊と聞くと真っ先に思い浮かんだのは機関車であった。
しかし、この世界はあまり科学技術は発達しておらず、機関車は存在していないはず。もっぱら陸地の移動は馬車くらいしかない。
「キカンシャ? そういうのか流石に旅人は知識が豊富だな」
「いや。それは線路……わからないか。道みたいなものはどこの方角に続いている?」
「道なんてのはなかったぞ。キカンシャという空を飛ぶものではないのか?」
「はぁ?」
「不思議なものだろう?」
「あぁ……まるで作り話みたいだ」
ロウは啞然とし、俯く。
常識の中では機関車は決められた線路の上を走る乗り物。決して空を飛ぶものではない。
確かに空を飛ぶ機関車はあった。しかし、それはアニメや空想の話であって現実ではありえない。
だからこそ、楽園への疑いが強まった。この世ならざる存在が関わっているのではと。
「行きたそうな顔をしているな」
顔を見上げる。老人は相変わらずレバーを回しながら、ロウの顔をじっと見つめていた。
「望めば希望が手を差し伸べる。それが楽園への行き方だ」
レバーを回す手を止め、箱についている取っ手を引っ張る。容器の中には強い香りを立たせる粉状の珈琲豆。
老人は台所の隅に置かれていた紙を鉄の容器の上に置く。紙の上に挽いた珈琲を乗せる。
丁度沸騰したお湯を全体に回すように至極丁寧に珈琲にかける。
湯気と乗って鼻腔をくすぐるいい香りが漂う。
お湯を入れ終え、珈琲が完成する。
「よし、できたぞ」
老人はカップに珈琲を注ぎ、差し出す。
「ありがとう」
ロウはカップを貰い、黒い液体を見つめる。
リーンドイラではあまり珈琲が好きでなかったが、ここ最近、突然珈琲が飲めるようになった。
今までは苦みが美味しさを感じなかったが、今ではなんとなく苦みの良さを理解し始めたのだ。
まずは鼻で匂いを味わってから、口で味わう。
口の中に独特の苦みが広がる。ただその苦みはしつこくなくスッキリとした口当たりでかなり飲みやすい。
「若いのに何も入れずに飲むとは」
「最近のこの苦みが悪くないと思ってな」
「見かけによらず、大人だな」
「そうか?」
ロウは黒い液体に自分を眺める。
確かに今までよりあどけなさがなくなったように見えるが正直、違いがわからない。
「少し話をしてもいいか?」
老人はカップを起き、静かに語り始める。
「この村はご覧通り乾いた土地だ。昔は緑豊かな場所だったがここ数年の異常気象で死にかけている。今では水も作物も手に入れるのは一苦労だ。だから、皆この村を捨てた」
「気を悪くしたら謝るけど、それは当たり前だ。残るあなたの方が異端だよ」
「はっきり言う。その通りだ」
この村に来る道中、ロウはずっと見てきた。
草木も生えない乾いた大地。川や水溜りもなく、肌を焼くような日差しが照り付ける過酷環境だ。
はっきり言って、わざわざ過酷なところで生活を送るくらいなら他の町に移住する方がいいだろう。
もし、ロウがこの村の住人だったら楽園に向かわずともさっさと出るだろう。
すると、老人は珈琲に口を付け、「だが」と満足そうな笑みを浮かべる
「だが、こんな過酷な場所でもこの珈琲は育てられる。この味を手放すのは惜しい」
「それは……わかる気がする」
ロウは納得してしまう。
この村がなくなってしまったらこの珈琲の元となる豆を作り手がいなくなり、この味が二度と味わえなくなる。
別に知らない人間にとっては何にも価値がないことだろう。
でも、味を知ってしまったロウにはこの味は唯一無二の価値あるものに感じていた。
「それに胡散臭いと思わないかね。万人が幸福というのが」
老人は珈琲を一気に飲み干す。
「お前にとっての幸福とは何か?」
「それは生きられる。後は飯をたらふく食べられて、平和で……」
ロウは幸福についてあまり考えていなかった。というのもそもそも生きているということそのものが幸福だと思っている。
以前の世界では満足に食べることも寝ることもできず、嫌でも生きる為に人を殺していた。それは確かに不幸ではあった。
しかし、その不幸は生きている人間のみが味わえる苦味だ。こ
例え、秩序が崩壊し、弱肉強食の世界で地獄のような世界でも変わらない。生きたくても生きられなかった人や苦しみながら死んでいった人達から見れば自分は幸福な人間だ。
「そうか。だが、幸福というのは人によって違う。飯を食べることを幸福と捉える者もいれば、飯を食べられるのは当然であり、うまい飯を食べることこそが幸福と考えれる者もいる。どんな体に悪い泥水だろうと水分を補給できるだけありがたいと思う者もいれば、逆に泥水を飲まされることを不幸に思う人もいる」
「それはそうだ。環境も経験も違うからな」
「極端な話を動物……まぁ人を殺すことを幸福と捉える人間と共存できるか?」
「無理だな」
「そうだ。幸福も必ずしも共存できない。動物だからと言って草食動物と肉食動物を一緒の檻にいれられないのと同じだ。躾ようによっても可能かもしれないが手間がかかる」
誰もが幸福であれる場所。
確かに何よりも聞こえのいい言葉で誰もが求める場所だ。
だが、人間に様々な考えや思想を持つ。必ずしも自分にとっての幸福が他人にとっても幸福であるとは限らない。
全体よりも個を尊重することが大事だと思う人もいれば個を犠牲にしてでも社会に尽くすことが大事にする人間もいる。そんな人間が共存できるはずがない。
だから、全員が幸福でいられる場所などないはず。あったとしてもそれは都合の悪い人間を排除したディストピアだ。
「人は楽を求め、幸福だけを求める。だから甘い匂いに惑わされる。だが、甘さを知るために苦みを知ることも大事だと思う」
確かに万人が幸福というのは甘い匂いだろう。でも、甘い匂いを漂わせて、捕食する食虫植物なんてものも以前の世界では存在していた。
「しかし、楽園は本当に楽園なのかもしれない。だから、君はその目と足で確認すればいい。それが若者の特権だ」
「……目と足」
「儂みたいに思想に凝り固まった人間にはなるな」
老人は笑い声をあげる。まるで偏見でしか語れない自分を嘲笑うかのように。




