黎明
クルスは理解できなかった。夢でも見ているのかと錯覚するくらい掴みどころのない感覚に陥った。
たった数秒前までロウの喉元にナイフを突き刺した。ナイフを抜けば穴から血が噴水のように高く噴き出る。顔面に返り血の生温かさと鉄臭さを感じ、赤くなった手を眺めてクルスは自分がとんでもない悪に手を染めたことに気づいた。
怒りという感情に身を任せ、人を殺した。目の前でぐったりと仰向けになっているロウから空気が抜けている風船のような音が鳴っている。
取り返しの付かないことをしてしまったと激しく後悔する。命を奪った恐怖を実感し手が震え始める。確かにロウは結果的に償いきれない罪を犯した。だが、発端は奴隷達を救いたいという正義からだ。決してこの町を火の海に沈めたいなどという邪の心持っていたわけではない。悪人だったなら一方的に責められたがロウはそうではなかった。だからこそ行き場のない怒りを抱えたクルスはロウの情けない姿を目の当たりにしたことでついに爆発させてしまったのだ。
しかし、全てが杞憂に終わることになる。
「な、何!?」
いつの間にか血の噴水が止まり、呼吸音も聞こえなくなりいよいよ亡くなったかとクルスは背けたくなる現実に覚悟を決めて目を向ける。しかし、目の当たりにしたのは衝撃の事実であった。
ロウの首に開いた土竜が掘った穴のような傷口がまさに「あっ」と言う間に塞がる。そして、ロウの目に生気が宿り、上下左右に動かしては今まで死の淵に立っていたとは思えないほど軽やかに起き上がる。
クルスはただ啞然とするしかなかった。確実に助かる見込みのない致命傷を負っても驚異的な治癒能力で命を取り留められるロウは何なのか。普通の人間ではないのは確か。
「ば、化け物が!」
自然とその蔑称が口から漏れてしまう。そして同時に恐怖した。化け物だろうと人間だろうが自分を殺そうとした相手をただで帰すお人好しはクルスは出会ったことがない。だからこれから報復として今から殺されるのではと最期の瞬間がクルスの頭の中に過る。
白黒の過去が蘇る。両親に暴力を振るわれ、部屋の片隅で痛みに耐え身を抱えながら泣いた辛い日々。そんな毒親によって奴隷商人に売り飛ばされ、揺れる船内で先の見えない未来に絶望と失望を覚えた。
先の見えない道に放り出された時にカマドの肉刺ができた手を取った暖かさは今でも覚えている。あの大きな背中も目に焼き付いている。一人の人間、男になりたくて無我夢中で道を走った。そして、やっとカマドに一人前の男に認めれ、店を任された時は涙を零すくらい嬉しかった。
クルスは初めて走馬灯を見た。本能が生きたいと吠えているのだ。
クルスはスッと立ち上がり、殺されるとしてもせめて最後まで抵抗しようとロウを睨む。だが、この時になって初めて気づいた。
ロウはクルスを殺すつもりは毛頭ない。虚ろな目がロウの今の感情を表していた。
「……」
ロウはクルスに目もくれずゆっくりと振り返る。そして足枷を付けられた囚人のような重い足取りで歩き、暗い路地の先に溶け込むように消え去っていった。
「ロウ……」
クルスはロウの後を追おうとはしない。
引き留めても仕方がない。罪人であることは変わりなく、このままいたところで公開処刑されるのがオチだからだ。
♢
夜分からずっと続いた混乱は自警団と警察達の決死の行動のおかげで朝を迎えると同時に収束した。
しかし、残った爪は決して小さくはなかった。建物は火災と暴徒の影響で崩れ、酷いところでは倒壊しているものがあり復興までに相応の時間がかかると見られている。死傷者は現在確認できている数だけでも約百は超え、内七割強が奴隷であった。
「まるで竜巻が通り過ぎたみたいじゃのう」
昨日まで美しかったリーンドイラの町が一晩開けた途端、荒れ果てた町に変貌したことにサイは嘆き悲しんでいた。サイの抱える奴隷達はクルスの仲間達の助力もあり、誰一人欠けることはなかった。
「サイの爺さん」
サイはゆっくりと振り向く、そこには目の下に大きな隈を作ったクルスがいた。サイはよく頑張ったと労いの言葉をかけようとするがそれよりも先にクルスが言葉を発した。
「俺の責任なのかもな……」
クルスはサイの隣まで歩き、ゆっくりと腰を落とす。サイは黙って続く言葉に耳を傾ける。
「今回の事件は遅かれ早かれ起きる事件だったと思う。奴隷の中では奴隷で拒む奴だっているし、奴隷を憐れむ奴がいる。不満や怒りなんてものはずっとは貯められない。いつかは溢れたり、爆発したりする。それが多分……今日だったんだ。例え、今日起きなかったとしてもその先に繰り越されるだけ」
「クルス……」
「根深くてシビアな問題だからゆっくりと解決しようとしていた。でも、それは言い訳だった。変化を恐れ、自分達の我が身可愛さを縦にした俺達のつまらない言い訳だ」
拳を固く握り締める。
難しい問題だからと先へ先へと伸ばしていった結果、今回の惨劇が起きた。
クルス達がもっと迅速に奴隷問題を解決していれば起こらなかった事件だとクルスは言いたいのだ。
しかし、それはあくまで結果論だろう。それができなかったから今回の惨劇が起きたのだ。
「Nobodys Perfect」
「何だそれは?」
「異国の言葉で『誰も完璧ではない』という意味だ。人には必ず失敗する時がある」
サイはゆっくりとかがみ、クルスの迷いのある瞳に訴える。
「例え、犠牲が出ようが失敗は失敗だ。背負わなくてはならない罪だ。だが、人間には失敗を糧に成功へと導く力がある」
サイはクルスの肩を強く叩き、叱責する。
「今を嘆く暇があるのなら前に進め! 同じ罪人を作らないためにも!」
今回出てしまった犠牲者に同情し、嘆くのも間違ったことではない。だが、クルスには他の全うすべき使命がある。奴隷を全て解放し、誰も苦しまないようにするという使命が。
「それにお前一人で抱え込むことはない」
すると、サイはクルスの背後に指を指す。
そこにはクルスと同じ志を持った仲間達十六人がいた。
「クルス。もうこんなことは起こしたくない。だから共に来てくれ。無論、拒否は認めないがな」
「僕達だって何もできなかった。だから僕達も同じ罪人だろう」
「みんな……」
たった一人で固まった決意がさらに周りから押し固められ、より強固の岩石となる。
「ありがとうなみんな。そして、サイの爺さん」
クルスは立ち上がり、サイに一礼して、仲間の元へと足を踏み出す。
これから歩む道は茨の道だろう。しかし、世界の為、奴隷という弱者達が幸せに暮らす為にクルスは傷だらけになろうと突き進む。
仲間と共に。
「ロウ。俺はお前を許しはしない。でも同じ志を持つであろう者同士……使命を果たせよ!」
そして、陰ながら同じ志を持ちながら過ちを犯したロウの復活を願うのであった。
♢
クルスの前から去ってから半日経った頃。ロウは薄暗い森の中をゾンビのような不確かな足取りで彷徨っていた。周囲からは鳥の甲高く煩わしい鳴き声。そして野犬の唸り声が目の前から聞こえる。
野犬の数は三匹。三匹とも口の周りには赤い血が付着している。そして後ろには赤黒く染まった小さな少女がうつ伏せに倒れていた。
ロウはゆっくりと少女に向かう。野犬は獲物が盗られることを嫌がり、鋭い牙でロウを食い殺そうとする。しかし、ロウが軽く払うだけで野犬は簡単に弾かれ、大木の体を強く叩きつけられる。野犬共は本能で察した。ロウの恐ろしさを。すると野犬共は情けない鳴き声をあげて、尻尾を巻いて逃げ出した。
一人になったロウは目の前で息絶える少女を抱きかかえる。
「ごめんよ……本当に……」
少女を持ち上げると野犬に貪られていた脇腹から内臓や血がボトボトと垂れる。ロウは歯を食いしばり、少女を強く抱き締める。
再び罪を実感する。惨劇を引き起こした現実を受け入れられたものの許容量を遥かに超えた罪の重さと量にロウの心は死にかけていた。
死にたかった。犠牲になった人達、不幸になった人々に償うためにこの命を散らしたかった。処刑されても構わない。寧ろして欲しい。ギロチンで首を切って、転がる頭を嘲笑しても構わない。気が済むまで石や物を投げつけ、最後に心臓に槍を刺されても構わない。魔女と罵られ、火炙りにしても仕方ない。
こんな自分を殺して欲しいとただ願うしかない。
ロウは自分を殺すことができない。自殺は都合のいい逃走だ。惨劇を引き起こして罪人の癖に自分が楽になる逃走をしてはいけない。
そして、何より今まで犠牲になったエマとキャシーを裏切り、ロウの中で生きている二人を再び殺すことになる。だからと言って他人に殺して貰いたいというのもまた自分勝手な逃げであるが。
「……せめて……」
ロウは丁寧に少女を置く。そして、その場で穴を掘る。爪の中に土が入り痛い。小石がぶつかり、爪や皮膚が剥がれて声を上げそうになる。だが、少女はこれとは比にならない程の痛みと恐怖、絶望を味わったのだ。この程度を苦しみと嘆く権利はロウにはない。
「これで……良し……」
大の大人が入れる程の大きく深い穴が完成するとロウは土と血で汚れた手で再び少女を抱きかかえ、そして胸の中で眠ている赤子を起こさないようにベッドに移すように慎重に少女を穴の中に寝かせる。
穴の中で横たわる少女はまるで揺り籠に寝る天使であった。
ロウは脇に積まれた土の山を穴に放り込む。少女は段々と土に覆われ、やがて完全に覆われて見えなくなる。
穴を埋め終わるとロウは膝をついて、合掌する。自らの行動の所為で犠牲になった少女にせめてもの弔いを終えるとロウは再び、不確かな足取りで森の中を彷徨い始めるのであった。




