前兆
「こちらがお釣りです! お買い上げありがとうございます!」
店を切り盛りするクルスは水色のワンピースを着こなした若い女性のハリのある手に薄汚れている小銭を置く。そして、布製の手持ち袋に野菜やら果物などの品物を手渡す。
女性が小銭を財布に仕舞い、軽く会釈をするとクルスはその何倍も深く頭を下げ、威勢のいい声で女性を店から送り出す。
「そろそろ閉める頃合いか」
既に辺りは夕暮れの茜色に染まり、市場を歩く観光客も疎らになってきた。
これ以上の営業を続けてもただ呆然と夕日を眺めるくらいしかやることがないだろう。それならばさっさと店を閉めて、売上と利益の勘定を行ったほうが余程有意義な時間が送れる。
そうと決まればとクルスへ店先に僅かに残る品物を全て一つの箱に入れ、片付け始めようとした時だ。
「おい、クルス! 大変だ!」
道の右側から無精髭の男がクルスの元に全速力で向かってくる。彼はクルスが所属している奴隷開放協会に所属している仲間の一人である。そんな彼が切羽詰まった様子で何か重要なことを伝えようとしている。しかし、全速力で駆けてきたのか呼吸が激しく、何を言っているのか聞き取り辛い。
「落ち着けよ。水飲むか?」
「そんな暇は……ねぇ!」
水を差し出しても飲む暇がないと突っぱねねばならないほどの重要な話とは一体何かとクルスは身構える。
「今までマークしていた奴隷商が……いただろう?」
「そいつに何が起きた!」
「管理している奴隷達が……逃げ出した!」
「何……だと!?」
クルスは絶句する。奴隷が逃げ出すことはかなり危ない状況なのだ。
奴隷は逃げ出したところで結局、一人で生きていく力も資金も皆無であり、盗みや殺人に手を染めることが殆であり、野放しにすればその街の治安を悪化させてしまう。
そこで奴隷法第六条一項において管理者の元から無断で去った場合はその管理者が責任を持って保護しなければならない。
問題は二項だ。これにおいて逃げ出した奴隷はもし管理者以外の人間が保護した場合は生死の責任は問われず、どんな傷物にしても全ての責任は管理できなかった管理者にあるとされている。
人の中では保護した奴隷を性的暴行を加えたりする者も少なからずいる。しかし、奴隷には人間不信や元は罪人などの素性の良くない者が多く、保護されてもパニックなどに陥ったりその立場を利用して保護した人を危害を加えたりすることがある。身を守る為の二項だが己の欲の為に悪用されているのが現状である。
「俺達の仲間がその奴隷達を探している! でも……」
「おい、大変だ! 逃げ出した奴隷が他の奴隷達を助けている!」
しかし、事態は簡単に収まることはなかった。今度は左側からロングヘアの男が二人の元に駆け寄ってきては無精髭の男同様、切羽詰まった様子で現状を報告する。
「馬鹿なことを!」
苦しい待遇を受けていた奴隷の中には同じ境遇の奴隷を助けようと無茶を行う者も少なからず存在する。
実際にそんなことをしてもただ事態が悪化するだけであるが法律も知らず、そもそもまともに教育を受けていない彼らにそんなまともな思考ができるはずがない。
「しかし、どうして脱走なんか起きたんだ。あそこはかなり黒いことやってたからそうなってもおかしくないが。その分、管理も厳重で有名だったぞ」
逃げ出した奴隷達を管理している商人はかなり酷い性接待を行わせていたことで有名であり、クルス達から目をつけられていた。
だが、そういうことをする者に限って慎重であり、管理はかなり厳重であった。そんなものを貧弱な奴隷達が掻い潜るどころか、全員で逃げ出すなど天文学的確率だ。
その為、外部からの接触によるものというのが一番可能性が高い要因だろう。だが、身寄りの居ない奴隷達を助けようとする者などそうそういない。クルス達は奴隷を助けたいという志はあれど、そういった無茶なことはしない。
「あいつか……」
クルスにはたった一人心当たりがあった。
愚直なあの男のシルエットが目に浮かぶ。心の中で冷たい水が沸々と煮立ってくる。
「お前達は引き続き逃げ出した奴隷達の保護。そして、他の奴隷商の所に行って警備にあたってくれ!」
「お前は何処に行く!」
「元凶を……殺しに行く!」
クルスは二人に命令すると脇目も振り返えらず、あの男を探しに走り出す。
償わせなければならなかった。自分勝手な正義が思わぬ犠牲と苦しみを生み出すであろう保谷ロウという男を。




