旅する雪女
目の前の炬燵の上に、発泡スチロールの箱がある。宅急便の伝票が貼りつけられたそれは未開封。ガムテープで目張りされた蓋の隙間から冷たい空気が漏れている。
「これなんやの? 蟹かなんかかな?」
「いや、違うわ。ここ見てみ」
私の期待に満ちた問いかけを全力で聞き流すかのように、母は伝票を指さした。送り主は秋田の叔父夫婦だ。
「内容物、雪?」
「あんた、この前電話で言うとったやろ。雪見たことないから、雪送ってくれって。あれ、本気にしたんちゃうか」
「えぇ、まさかぁ」
確かに私は言った。しっかり覚えてる。けれども、本当に雪を送ってくるなんてことがあるだろうか。
その奇妙な贈物見たさに、野次馬根性丸出しの私の家族はどやどやとリビングに大集合した。父、母、高校生の兄、祖父、そして私。
エプロンの紐を締めなおした母が、乱雑にガムテープの端をめくる。バリバリと箱ごと裂かんばかりの勢いで封を開けた。全員が息を呑み、額を寄せあい、その箱をのぞき込んだ。
「……白いなぁ」
「あぁ、白い」
「ほんまに雪やわ」
箱の中にはビニール袋に包まれた雪が入っていた。ご丁寧にその周りにはドライアイスが敷き詰められていて、溶け残ったドライアイスがもうもうと白い息を吐いている。
それは小さな雪山だった。
運搬途中でドライアイスが偏ったのか、雪の形状にはムラがあった。固い雪山の周りを、少し崩れかかった雪が覆っている。ぐずぐずと水気を含んだそれは雪崩のように箱の底へと落ちていった。頂はまだしっかりとしていて、登ってくるものを全力で拒んでいる。
それは私の想像していた柔く、儚く、繊細な雪とは全く違った。
「ほぅ、これが雪か。……で、どないする。これで雪だるまでも作るか」
「おじいちゃん、言うけど誰が作んのん。私は嫌ですよ、手ェ冷やこいのは水仕事だけで十分です」
「でもお母ん。叔父さんがせっかく送ってくれたのに、捨てるってのはもったいなないか」
「お兄ちゃんも何言うてんのん。捨てる以外にどうするんよ」
雪の行方をめぐって、家族会議は思わぬ方向へ進み始めた。父と弟、祖父の「保存派」と母の「破棄派」で意見が分かれてしまったのだ。雪を使って何かを作りたがる「保存派」に対し、母は頑として反対し続けた。
「捨てるなんて情緒もへったくれもないやないか。儂ゃ冬を楽しみたいんじゃ。あと何回冬を越せるか分からへんからの」
「おじいちゃん、歳を引き合いに出すやなんて汚いわ。そんな言い方」
「なぁ、美恵子さん。後生や、頼む、雪だるま作ってくれんかの」
「そこまで言いはるならおじいちゃんが作ればええやないですか。私はおじいちゃんが自分で作ってくれはる言うなら反対しません」
「え、せやけど、雪は冷たいし……」
「ほら、やっぱり、最終的には私がするんやないですか」
「先言うとくけど、僕は嫌やで、じいちゃん」
「俺も勘弁や。母さん、作ったったらええやないか、雪だるまくらい」
そうこうとくだらない言い合いをしている間にも、開けっ放しの冬の箱庭へと暖気は流れ込んでいき、雪はゆるゆると溶け始めていた。雪をどうするかを決めるのに夢中で、雪が雪でなくなっていくことなど誰も気にかけない。
無言で成り行きを見守っている私を、家族は気にも留めなかった。私は炬燵で頬杖をつきながら、ぼうっと雪を見つめていた。
この箱の中にいる分には、雪たちは泥や埃に穢されることなく、まっさらなままでいられるのだ。雪だるまにしてしまえば、きっと埃を含んで灰色になってしまうだろう。外に飾れば、泥だって被る。せっかくの無垢さが失われてしまうのは忍びない。どうせなら、捨てる以外で、この雪をどうにかする方法がないのだろうか。私はそればかり考えていた。
母の圧力は凄まじかった。大の大人二人と兄、その三人の説得でもってしても、母は折れなかった。むしろ、「保存派」は終始押され気味で、次第に意見する回数も減っていった。「でも」、「だって」が飛び交う中、何気なく雪に目をやった兄が、ようやく私の存在に気付いた。
「なんや、春美、おったんかいな。黙ってたさかいに気付かんかったわ。部屋で作文の宿題やってたんちゃうんか」
「おお、春美。春美はじいちゃんの味方やな。春美も雪だるま、見たいやろう」
「おじいちゃん、春美を誘導せんとってくださいな」
「私は……」
急に自分に矛先が向く。答えなど考えているわけもなく。名案など思いついているわけもなく。私はごにょごにょと口ごもった。
特にどちらの案に賛成しているということもないのだ。母の言い分も理解できたし、祖父たちの言い分も納得できた。優柔不断と言われるだろうが、私はどちらかが引き下がらなければならなくなるのは嫌だった。何故かは分からない。でも、どうしても嫌だった。
リビングの明かりを反射して、きらきらと雪解け水が訴えかける。厳しい雪山が泣いていた。この山に住んでいるのは心優しい雪女なのだろう。
このまま儚く消えてしまうのも辛い。永遠に白でありたい。
雪女の我儘な叫びが聞こえてくる。そんな気持ちが、ほんの少しだが分かる気がした。いつまでも続くと錯覚してしまいそうな私の幼い今も、いつかは終わってしまうのだから。
「なぁ。叔父さんって、山に住んでるんやっけ」
「あんた、一体何言い出すの」
「ええから」
「そんなに標高の高い山ちゃうけど……確かに山の方に住んではったはずよ」
「ほんなら、この雪はきれいなんやね。せやったら……」
「いやぁ、なかなか乙なもんやね、美恵子さん」
「せやねぇ。あ、おかわりはまだまだありますんで、お父さんもおじいちゃんも遠慮せんと飲んでください」
「じゃあ、もう一杯もらおうかな。母さんもまぁ飲めや」
「おい、春美、シロップいるか?」
「お兄ぃ、私、イチゴやのうてメロンがええわ」
カシュリと雪にアイスピックを突き立てる母。氷の塊のように固くはなく、気持ち力を込めるだけで、その頂はあっけなく崩れた。
ウイスキーの瓶を持ち出してきた父は意気揚々とお気に入りのグラスに酒を注ぐ。それをにんまりと眺めている祖父は上機嫌だ。
夏の終わりに買った、未開封のかき氷シロップはちょうど二種類あった。見切り品で安いから、と買ったものの、使いどころに困っていた物だ。
三つのグラスと二枚の皿に、砕かれた雪が満たされる。思い思いに楽しもうと、家族で炬燵を囲んだ。
シロップのかかった雪をスプーンですくい、口の中で転がしてみる。ひやんと頬の裏が縮こまり、歯に凍みた。砂糖水と絡み合った雪は体温を含み、ぬるくなる。
「痛たた。頭がキーンとするわ」
「お兄ぃは一気に食べ過ぎやねん。……いっ……たぁ、私も痛なってきたやんかぁ」
溶けた雪を飲み干すと、不思議と雪の広がる山の風景を見た気分になった。ほぅとついた吐息は白く、束の間漂い、蛍光灯の光の粒子に吸い込まれていく。
「炬燵でみかんもええですけど、こんなのも洒落ててええわな」
不機嫌だった母もフフフと笑っている。ほろ酔いの証拠に、目尻がほんのり赤らんでいる。
「今年の冬も、寒うてかなんなぁ」
雪国の冬に比べれば、ここの冬は可愛いものだろう。ぴゅうと北風が一吹きしただけで、背中を丸めている私たちとは違って、雪国の人は強い。
厳めしい雪山から放りだされ、人里に旅に出た雪女。ある者は琥珀の海に、ある者は赤い花畑に、ある者は緑の草原に辿り着いた。
なんて素敵なんだろう。私はうっとりと目を細めた。
透き通った雪解け水が、私の喉を潤し、胃に流れ込み、しんと染み渡っていく。頭がすっきりと冴え渡る。
長い旅路を終えた小さな冬は、小さな私の体に音もなく寄り添い、ほろほろと解けていった。